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山下綺麗の日記 六

 

 自殺についての無難な文章を書く。

 思春期の人間にとって、自殺という言葉は甘美な誘惑。たぶん十年後には、あれは青年の通過儀礼だったなどと言い捨てる。
 死ぬことを考えることは、同時に生きることを考えることに等しい。不自然な感情は、きっと存在の不自然さに対しての感受性が奥底から吹き出しているから。存在は意味もなく存在そのものだから、それを意識してから受容するまでの時間が必要なのだろう。深い傷に気づいて、そして、その痛みと存在に馴れ合い存在そのものが透明になるまでの時間。
 生きているとは何かということに理由など本来は必要がないが、それでも、人は、生き甲斐だ、存在意義だとかで自分がこの世で必要な人間であることを求める。人は結局認められることで生きていられる。
 これからの人生でまだまだ、多くの人と出会い、その中には自分を必要とする人も現れるだろう。
 自殺は、自分の必要性を無条件に認められる人間を探し求める過程であろう。自分のために命をかけられる人を見つけられたとき、その人のために命を捨てられることを確認できたなら、自殺など誰も考えない。
 生きていることが無意味であるという理由だけで自殺するとしたら、自殺することが無意味と言うだけで生きていける、生きることの意味は、自分の必要性を感じられるほどの人生経験を積んでから感じることができるだろう。よく、自殺のコメントに鈍感なアナウンサーが、相談できる人、教師とか友人とか親とかいなかったんでしょうか、とか言うが、自殺を相談できるような人はそうそうはいない。
 教師も友人も親も、自分がいなくても生きていけるのだから。自分がいなくては生きてはいけない、守るべき人物を見つけることはきっと、重要なこと。
 しかし、自分が生きる意志を持つことは、一人でもできる。それは、希望、夢、未来・・・いつか認められることを目指すことは今すぐにでもできる。
 人は、どうしようもなく孤独、どうしようもなく集団。人は集団の中で孤独に生きていく生物。その中で、虚無ではなく、希望を持てることが大切。絶望は希望。絶望の暗闇の中で、希望の光は最高に輝く。
 自殺するには早すぎる、もうすぐ自殺さえもできなくなるような老人になるまで待っても、そうは、遅くはないだろう。まだ自分の胸の奥で鼓動が響いているのなら。
 どんな食物も多かれ少なかれ、毒性を含む。どんな薬も副作用があるもの。生きるためにものを食べることは、死に近づいていることに等しい。生きていくすべては死ぬための準備なのかもしれない。どんな死に方を望むのか、それを考えずして死ぬことはちょっとカッコ悪いかもしれない。

以上