私は学生時代に、教会で日曜学校の先生をしたことがあるのですが、子どもたちに、こんな話をしたことがあ
ります。
「ある国の王様のもとに、それはそれはおかしな道化師――ピエロがいました。
彼はいつも愉快な話をして、王様を笑わせていました。それでその道化師は、王様の大のお気に入りでした。王様はいつもこう言っていまし
た。
『お前は本当に愉快だなあ。お前より面白い道化師は、世界には誰一人いないだろう』。
またある日、王様は道化師を呼んで、彼に言いました。
『さあ、お前はこれから、旅に出なさい。そして、お前よりもおかしな道化師がいないかどうか探すのじゃ。もしお前よりおかしな道化師が
いたら、ここに連れてきなさい。一番おかしな道化師を探して連れてきたら、たくさん褒美をやろう』。
そんなわけで、道化師は旅に出ました。彼は国中をまわって、おかしなおかしな道化師を探してまわりました。
でも、なかなか見つかりません。お笑いパフォーマンスをすると、いつも彼の方が人気が出てしまうのです。そんなおり、お城から伝令が彼
の所にやって来ました。
『王様がご病気になられました。すぐお戻り下さい』
と言うので、彼はすぐさま、お城に帰りました。
お城に着いて、王様の部屋に入ると、病気で重体になった王様が、ベッドに横たわっていました。
『王様、ただ今戻りました』。
『おう、戻ったか。わしも、そろそろ永遠の旅に出る時が来たようじゃ』
『永遠の旅?』
『そうじゃよ。あの世に旅立つ時が来たようじゃ』
それを聞いて、道化師は言いました。
『王様、もしそうなら、その旅の準備は、もう出来ておいでですか』
『準備? 準備などしておらぬ。何をしたらいいのかわからんしな』
『そうですか。王様、ついに見つけました。あなたが一番おかしな道化師です! 世界中で一番おかしな道化師です。
私は王様の命令で旅に出るときに、様々の準備を致しました。ところが王様は、これから永遠の旅に出ようというのに、何も準備をなさって
いないというのですか。王様はまことに、一番おかしな道化師です』」。
みなさん、この道化師の言葉は、多くの人々にとっても、大きな意味を持つのではないでしょうか。あなたも、永遠の旅の準備はできていま
すか。
いつかはわからないけれども、どんな人にも必ず、いずれ、そう遠くない未来に、永遠の旅に出るときがやって来ます。
今日、私たちは「死後の世界」について、聖書から共に学んで恵みを受けたいと思います。それを学ぶことによって、私たちがどのような準
備をすべきかも、わかってくるでしょう。
どうか聖霊様が、私たちの理解力を助けて、偉大な真理を示して下さいますように。
死の際に魂は肉体から分離する
「死後の世界」というと"こわい話"と思うかたもいるかも知れません。しかしみなさん、たとえば陸上選手が、ゴールがどこにあるのかも
わからずに走ったら、一体どうなるでしょうか。
その走りは全くおかしなものとなってしまうでしょう。私たちも人生のゴールである死後の世界について、はっきりとした真理を知らない
と、今の人生そのものがおかしくなってしまうのです。
人間は肉体に死が来ると、魂が肉体から離れます。旧約聖書には、ヤコブの妻ラケルが死のうとしていた時のことについて、
「彼女が死に臨み、その魂が離れ去ろうとするとき・・・・」(創世三五・一八)
と記されています。死と共に、魂は肉体から分離するのです。
死は、決して無に帰することではありません。
私の住んでいる埼玉県児玉町は、関越高速道路の近くにあります。関越高速に乗って新潟方面に行くと、その途中に「関越トンネル」とい
う、それはそれは長いトンネルをくぐります。
そのトンネルに入り、暗い場所をしばらく我慢して走っていると、やがて向こう側の土地に出ます。日本海側の土地に出るのです。
それは、トンネルのこちら側の太平洋側の土地とは、ずいぶん変わった景色です。冬などは、トンネルの向こうで雪が降っていて、まさに別
世界ということも多いのです。川端康成の小説に、
「トンネルを抜けると雪国であった」
という始まりのものがありますが、そういう別世界がトンネルの向こう側にあります。
死も同じようなものです。死はトンネルのようなもので、それをくぐると、その向こうには別世界があるのです。
ボッス画のこの絵は、死後の世界へ行くトンネルのイメージをよく表現している。
私は今日、死後の世界として、「天国」と「よみ」と「地獄」の3つについてお話ししたいと思います。
まず、クリスチャンの死後からお話ししましょう。聖書の教えによれば、クリスチャンは死ぬと、すぐさま神のみもと――天国に迎え入
れられます。
聖書には、クリスチャンの殉教者たちが、天国の「祭壇」のもとで神と会話を持っている光景が描かれています(黙示六・九)。
この「祭壇」は、天国の祭壇なのです(同八・三)。死んだクリスチャンは、天国に行って、天国の祭壇のもとで神に仕えているので
す。
天国は、神の王国です。神が王となっておられる国です。ですから、そこには神を人生の王、人生の主と認める人たちだけが入れます。
また天国は、聖なる神の治める王国ですから、罪のある人はそこに入れません。クリスチャンは、キリストの十字架の贖いの血潮によっ
て、また信仰を通して罪の赦しをいただいて義と認められているので、そのことのゆえに死後、天国に迎え入れて頂けるのです。
クリスチャンは死んだら、よみではなく、天国に入ると聖書は述べています。
「私たちの住まいである地上の幕屋(肉体)がこわれても、神の下さる建物があることを、私たちは知っています。それは人の手によら
ない、天にある永遠の家です」(第二コリ五・一)。
私たちは死後、「天にある永遠の家」に行くのです。よみに下ってから天国に行くのではありません。直接、天国に上げられるのです。
使徒パウロはこうも述べました。
「むしろ、肉体を離れて、主のみもとにいるほうがよいと思っています」(第二コリ五・六〜九)。
パウロは、この地上で肉体にとどまることはそれなりに意義のあることだけれども、心情的には、早く肉体を離れて「主のみもと」に行
きたい、と語ったのです。
「主のみもと」とはどこでしょうか? 天国です。クリスチャンは魂が肉体から離れると、その魂はすぐさま、神とキリストの住んでお
られる天国に上げられるのです。
聖書のヘブル人への手紙一二章には、「天のエルサレム」すなわち天国には、「教会」「全うされた義人たちの霊」がいる、と述べられ
ています(一二・二二〜二四)。クリスチャンは、死後天国――天のエルサレムに上げられて、そこに住んでいるのです。
クリスチャンは死後「天国」へ行き、未信者は死後「よみ」へ行く。そののち世の終わりに「最後の審判」の法廷が開かれる。
「よみ」と地獄は違う
つぎに、未信者の行く「よみ」についてお話ししましょう。
まず、「よみ」と「地獄」の違いについてです。「よみ」と「地獄」は、混同されてきましたが、別々の場所です。ヨハネの黙示録二
〇・一四に、
「それから死とハデスとは、火の池に投げ込まれた」(新改訳)
と記されています。口語訳では、
「死も、よみも、火の池に投げ込まれた」
です。ハデスは日本語では「よみ」(陰府、黄泉)というのです。
一方、ハデスが投げ込まれる「火の池」とは、地獄です。
「火の池」では永遠の火が燃えていると、聖書に記されていますから(黙示二〇・一〇)、「火の池」が地獄なのです。いわゆる「地
獄」は、聖書の言葉では「火の池」または「ゲヘナ」というのです。
世の終わりに、最終的にハデス(よみ)は、火の池=地獄に捨てられます。
世の終わりに古い天地が過ぎ去って、新しい天と新しい地が創造されるとき、その境目の時に、「最後の審判」と呼ばれる、神の裁判の
法廷が開かれます。
その時、「ハデス」すなわち「よみ」は、その中のすべての死人を出します。神を信じないで死んだ未信者の人々は、死後ハデスに行っ
ているのですが、世の終わりに彼らは、ハデスから出されて、神の裁判の法廷に立つのです。
その法廷で、彼らの最終的行き先が言い渡されます。
そのあと、空になったハデス、すなわち「よみ」は、地獄に「投げ込まれ」ます。捨てられるのです。
未信者を入れたままではありません。未信者を外に出したあと、空になった状態のハデス、すなわち「よみ」が、地獄に捨てられるので
す。
みなさん、それならどうして、ハデスと、地獄が同じものでしょうか。どうして、よみと地獄が同じものでしょうか。両者は同じもので
あるはずがありません。
私たちは、ハデスすなわち「よみ」と、地獄とを、決して混同してはいけません。それは死後の世界に関するすべての誤った知識の源と
なるのです。
神を信じないで未信者として死んだすべての人々は、今、「地獄」(ゲヘナ)にいるのではなく、「よみ」すなわち「ハデス」にいるの
です。
「火の池」とも呼ばれる地獄は、死の直後の場所ではなく、世の終わりの最後の審判以降のための場所なのです。
死んだ未信者は、今はハデス、すなわち「よみ」にいます。ハデスは、地獄とは違う場所なのです。ハデスは最終的に地獄(火の池)に
捨てられるものだからです。
ハデスすなわち「よみ」は、世の終わりの最後の審判の時までの一時的な、中間的な場所です。未信者は、世の終わりの最後の審判の法
廷が開かれる時まで、ハデス、すなわち「よみ」に留め置かれています。
一方、地獄は、すでに用意はされていますが、それが人々を収容するのは、世の終わりになってからです。そしてそれは世の終わりに
人々を収容すると、以後永遠に続きます。
ハデス=よみは一時的・中間的な場所、一方、地獄は終末的な場所で、永遠的かつ最終的な場所です。
私は以前「クリスチャンの最終状態」という話をしました。クリスチャンにとって、死後の見えない霊的な世界としての天国は"中間状
態"であって、新天新地がクリスチャンの"最終状態"なのだと、お話ししました。
同様に、未信者にとっても、死後の"中間状態"があります。それがハデス=よみでの状態です。
以前、東京の尾山令仁先生の本をお読みしました。最近大きな教会を建てられましたが、先生の本にも、ハデス=よみは未信者の死後の
「中間状態」であると、述べられていました。
クリスチャンに死後の中間状態と最終状態とがあるように、未信者の死後にも、中間状態と最終状態とがあるのです。
旧約の聖徒たちも「よみ」に行った
ハデス=よみについて、もう少し詳しくお話ししましょう。
旧約時代に――つまりキリスト降誕以前の時代に、すべての人は死後は「よみ」に行きました。
悪人だけが「よみ」に行ったのではありません。アブラハム、イサク、ヤコブ、ダビデ、ソロモン・・・・など、旧約の聖徒たちをも含
む、すべての人が、死後は「よみ」に下りました。
創世記三七・三五に、イスラエル民族の父祖ヤコブのことが記されています。ヤコブは、自分の愛する息子ヨセフが死んだと聞かされた
とき、
「私は、泣き悲しみながら、よみにいるわが子の所に下って行きたい」
と言いました。「よみ」にいるヨセフの所に下って行きたい、と行ったのです。ヨセフは神の信者です。すばらしい信者です。しかし、
そのヨセフも死後「よみ」に行った、と父ヤコブは考えていたのです。
「私は、泣き悲しみながら、よみにいるわが子の所に下って行きたい」
この「よみ」は天国ではありません。なぜなら、それは「下」にあるものとされているからです。
この「よみ」は地獄でもありません。なぜなら、それは神を信じる旧約の聖徒たちも行った場所だからです。
よみと地獄は、全く異なる場所なのです。
地獄は、世の終わりの最終的刑罰の場所です。それに対して「よみ」は、世の終わりまで人々が一時的に留め置かれる場所です。
私たちは、「よみ」とは何なのか、はっきり知らなければなりません。
ダビデも、自分は死んだら「よみ」に下る、と理解していました。彼は自分の死が近いと感じたとき、
「私の命は、よみに近づきます」(詩篇八八・三)
と言いました。ダビデの子ソロモンも、一般的な読者を対象に、
「あなたが行こうとしているよみには・・・・」(伝道九・一〇)
と言っています。旧約時代に、よみは、すべての人の行く世界だったからです。それは一般的な死者の世界なのです。旧約聖書にはま
た、
「いったい、生きていて死を見ない者は誰でしょう。だれがおのれ自身を、よみの力から救い出せましょう」(詩篇八九・四八)
と言われています。ユダの王ヒゼキヤも、病気になって死を意識したとき、
「私は生涯の半ばで、よみの門に入る」(イザ三八・一〇)
と言いました。よみは、すべての人の死後の行き先だったのです。
私は、よみと地獄が違うものだということを、かつてレックス・ハンバード先生の著書を読んでいたときに、初めて気づかされました。
レックス・ハンバード先生は、テレビなども使って良い伝道をなさっていた方ですが、先生の書かれた小さな本を、ある日何気なく読んで
いたのです。
先生はその中で、よみと地獄は違うものだと、聖書からはっきり述べておられました。私はハッとさせられて、「これは重要なこと
だ!」と、思わされたのです。
旧約時代、すべての人は「よみ」に下りました。例外は、エノクとエリヤの二人だけです。彼らは死を見ずに天に上げられました。
しかし、他の聖徒たち、アブラハムやイサク、ヤコブ、またダビデや、イザヤ、エレミヤなどの人々も、みな「よみ」に下ったのです。
「よみ」にはじつは幾つかの場所があって、彼らは「よみ」の"慰めの場所"と呼ばれる義人たちのための場所に行ったのです。
これはキリストの十字架の贖いの前の時代だったからです。
今日、クリスチャンに「あなたは死んだらどこへ行きますか」と聞けば、クリスチャンは、
「私は天国に行きます」
と答えるでしょう。クリスチャンが天国に行けるのは、キリストの十字架の血潮による贖いを受けているからです。
しかし、もし私たちがユダヤ教徒に、「あなたは死んだらどこへ行きますか」と聞けば、彼らは、
「私は、よみに行きます」
と答えます。旧約時代の聖徒たちも、そうだったのです。彼らは、死後よみに下りました。
紀元前の時代に書かれた聖書以外の古代ユダヤ文書を見ても、ユダヤ人は「よみ」を、すべての死者の行く世界――善人も悪人も、義人
も罪人も、すべての死者の行く世界と理解していたことがわかります。
旧約の聖徒たちは今は天国にいる
しかし、旧約の聖徒たちは、今は「よみ」にはいません。彼らはキリストの昇天の際に、天国に上げられました。エペソ四・八に、
「高い所に上られたとき、彼(キリスト)は多くの捕虜を引き連れ、人々に賜物を分け与えられた」
と記されています。キリストは復活して昇天されたとき、「多くの捕虜を引き連れて行かれた」のです。
キリストの昇天の時、弟子たちの肉眼には、キリストおひとりが上げられていくように見えました。しかしじつは、霊的には「多くの捕
虜」が、共に天国に行き連れて行かれたのです。
「捕虜」とは誰でしょうか。悪霊でしょうか。そうではありません。キリストが悪霊を天国に引き上げられるはずがありません。
キリストは十字架の死後の三日間、よみに下られました。聖書は、よみにいる人々を「捕らわれの霊」(Tペテ三・一九)と呼んでいま
す。
キリストは昇天の際、よみの「捕らわれの霊」たちを引き連れて、天国に上って行かれたのです。とくに旧約の聖徒たちを引き連れて、
天国に上って行かれました。
旧約の聖徒たちは、キリストの昇天の際に、天国に入ったのです。ですから、彼らはいま天国にいます。
シェオル=ハデス=よみ
「よみ」という言葉は、旧約聖書のヘブル語では、シェオルと言います。これは新約聖書のギリシャ語では、ハデスといいます。
じつは、紀元前の時代に、「七〇人訳聖書」というのが作られました。これは、旧約聖書のギリシャ語訳です。ユダヤ人の学者七〇人
が、ヘブル語の旧約聖書をギリシャ語に翻訳したのです。
「七〇人訳聖書」は、主イエスの時代にも、ユダヤ人の間で広く使われていました。イエスの時代には、ローマ帝国内ではギリシャ語が
公用語でしたから、ギリシャ語の「七〇人訳聖書」が多く用いられたのです。
この「七〇人訳聖書」において、シェオルはすべて、ハデスと訳されています。つまり、ヘブル語のシェオルと、ギリシャ語のハデスと
は全く同じ意味なのです。
新約聖書にも、時々、旧約聖書の言葉が引用されています。そうしたときも、シェオルは必ずハデスと訳されています。
ハデスは、シェオルに対する"訳語"だったのです。両者の間に、意味の違いはありません。
ですから、日本語の「よみ」(陰府、黄泉)は、ヘブル語でシェオル、ギリシャ語ではハデスです。ハデス、すなわちシェオル、すなわ
ち「よみ」は、地獄とは異なる世界なのです。
もう一つ、ある人は、
「煉獄というのは何ですか」
と聞くかも知れません。カトリックでは、「煉獄」ということを言いますが、これは「よみ」とも「地獄」とも違うものです。
私たちプロテスタントでは、「煉獄」は聖書の教えではないと考えるので、「煉獄」は存在しないと考えます。
「煉獄」というのは、教会とは関わりをもって生きたけれども、クリスチャンらしく生きないで、罪の多いまま死んだ人々が行くとされ
ている場所です。
中途半端なクリスチャンが行くとされている場所なのです。カトリックでは、中途半端な信者は死後まず煉獄に行って、そこで罪を清め
てから天国に格上げされると教えているのです。
しかし、これは聖書の教えではありません。ですから私たちプロテスタントでは、煉獄を説かないのです。
けれども、「よみ」は、聖書の中に何度も出てくる聖書的な教えです。そして「よみ」は地獄とは違う場所なのだ、ということを、すべ
ての人が理解しなければなりません。
よみは幾つかの場所に分かれている
「よみ」は、旧約時代、すべての死者の行った場所だと言いましたが、「よみ」はたいへんに大きな世界で、そこは幾つかの場所に分か
れていました。
「よみ」のその幾つかの場所について、ルカ福音書一六章のいわゆる「ラザロと金持ち」の話は、大切なことを教えてくれます。
金持ちは陰府で苦しみながら、アブラハムとラザロをあおぎ見た。
「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や細布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。ところが、その門
前にラザロという全身おできの貧乏人が寝ていて、金持ちの食卓から落ちる物で腹を満たしたいと思っていた。犬もやって来ては、彼のお
できをなめていた。
さて、この貧乏人は死んで、御使いたちによってアブラハムのふところに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。その金持ちは、ハ
デスで苦しみながら目を上げると、アブラハムが、はるかかなたに見えた。しかも、そのふところにラザロが見えた。彼は叫んで言った。
『父アブラハムさま。私をあわれんでください。ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすように、ラザロをよこしてください。私はこ
の炎の中で、苦しくてたまりません。』
アブラハムは言った。
『子よ。思い出してみなさい。おまえは生きている間、良い物を受け、ラザロは生きている間、悪い物を受けていました。しかし、今こ
こで彼は慰められ、おまえは苦しみもだえているのです。そればかりでなく、私たちとおまえたちの間には、大きな淵があります。ここか
らそちらへ渡ろうとしても、渡れないし、そこからこちらへ越えて来ることもできないのです。』
彼は言った。
『父よ。ではお願いです。ラザロを私の父の家に送ってください。私には兄弟が五人ありますが、彼らまでこんな苦しみの場所に来るこ
とのないように、よく言い聞かせてください。』
しかしアブラハムは言った。
『彼らには、モーセと預言者があります。その言うことを聞くべきです。』
彼は言った。
『いいえ、父アブラハム。もし、だれかが死んだ者の中から彼らのところに行ってやったら、彼らは悔い改めるに違いありません。』
アブラハムは彼に言った。『もしモーセと預言者との教えに耳を傾けないのなら、たといだれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞
き入れはしない。』」
(ルカ一六・一九〜三一)。
「ラザロと金持ち」のこの話は"たとえ話"と呼ばれることもありますが、私はこれを"たとえ話"とは考えておりません。なぜなら、
キリストはたとえ話を語られるとき、必ず「ある人が・・・・」と言われました。
「ぶどう園のたとえ」(ルカ二〇・九)でも、「タラントのたとえ」(マタ二五・一四)でも、「宴会のたとえ」(ルカ一四・一六)で
も、「ある人」と語られています。
しかしキリストは、この「ラザロと金持ち」の話においては、「ラザロ」「アブラハム」と、具体的人名をあげられました。具体的人名
が出てくるのに、どうしてそれが"たとえ話"であり得るでしょうか。
キリストが、かつて「栄華をきわめたソロモン」について語られたとき(マタ六・二九)、それは実話でした。キリストが、「神によっ
て滅ぼされたソドムとゴモラ」について語られたとき(マタ一〇・一五)、それは実話でした。キリストが、
「アブラハムは、わたしの日を見ることを思って大いに喜んだ」(ヨハ八・五六)
と語られたとき、それは実話でした。ですから、キリストが「ラザロ」「アブラハム」と実名をあげて語られたとき、それは当然、実話
であったと私は考えています。
それは、旧約時代の「よみ」における実話なのです。
よみの「苦しみの場所」と、よみの"慰めの場所"
二三節には、
「金持ちはハデスで苦しみながら目を上げると・・・・」(新改訳)
と記されています。口語訳では、
「よみにいて苦しみながら目をあげると・・・・」
です。これらは原語に忠実な訳です。実際「ハデスで」または「よみにいて」とするのが、正しい訳です。ここを「地獄」と訳してはい
けないのです。
金持ちは、ハデス、すなわち「よみ」の「苦しみの場所」に行きました。二八節で金持ちは、
「私は兄弟が五人ありますが、彼らまでこんな苦しみの場所に来ることのないように、よく言い聞かせて下さい」
と言っています。そこは、よみにおける「苦しみの場所」でした。一方、アブラハムやラザロは、どこにいたでしょうか。
先に述べたように、旧約時代、すべての人は死後「よみ」に行きました。アブラハムやラザロは、よみにおける"慰めの場所"にいたの
です。二五節で、アブラハムはラザロについて言っています。
「今ここで彼は慰められ・・・・」
と。よみは、このように少なくとも、二つの場所に分かれていました。福音主義の代表的神学者ヘンリー・シーセンの『組織神学』(聖
書図書刊行会)にも、そう述べられています。よみは、幾つかの場所に分かれているのです。
じつは、紀元前の時代に記された古代ユダヤ文書(エノク書)には、よみは四つの場所に分かれている、と記されています。
そのうちの一つは、義人たちの行く場所です。他の三つは、神を信じない人々が行く場所です。生前の行ないに応じて、よみの四つの場
所のどれかに行くとされたのです。
古代ユダヤ文書にそう書かれているのです。つまり、よみの「苦しみの場所」とは、神を信じない人たちが行く「よみ」の三つの場所の
うち、最も苦しみの多い場所であるとも考えられるわけです。
しかし、誤解しないでほしいのですが、私は、よみに四つの場所があると断言しているわけではありません。これは聖書の記述ではあり
ませんから、権威はないのです。
単に、紀元前の古代ユダヤ文書にそう書かれている、というだけです。しかし、少なくとも古代のユダヤ人は、よみには四つの場所があ
ると考えていた、ということがわかります。
聖書の中には、そのうちの二つの場所が出てきます。一つは、よみの"慰めの場所"、もう一つは、よみの"苦しみの場所"です。
多くの人は、この「ラザロと金持ち」の話は、天国と地獄の話だと思ってきました。しかし、ここには、天国も地獄も出てこないので
す。
これらはすべて、旧約時代の「よみ」における話です。旧約時代のハデス、すなわちシェオルにおける話なのです。
金持ちの苦しんだ「炎」は地獄の炎とは異なる
多くの人は、この金持ちが苦しんだ「炎」は、「地獄の炎」だろうと思ってきました。しかし、これは地獄の炎とは異なるのです。
以前、広島キリスト教会の植竹利侑先生が、この「ラザロと金持ち」の話から、メッセージをしておられました。私はそれをあるキリス
ト教雑誌で読んだのですが、それを読んで、たいへん大きな衝撃を受けました。
植竹先生は、こんなメッセージをされたのです。
"この金持ちは、地上にいる自分の兄弟たちのために、とりなしをしている。兄弟たちまでこんな苦しみの場所に来ないように、彼らの
所にラザロを送って、彼らを悔い改めさせてほしいと願っている。
もし、この金持ちの願いが聞かれて、兄弟たちが悔い改めたとしても、金持ちには何の得もない。にもかかわらず、金持ちは兄弟たちに
対して、これほどの思いやりを示している。これは愛ではないだろうか。
よみの金持ちがこのような態度を示しているというのに、私たちはどうだろうか。私たちは、この金持ちの気持ちにさえ及ばない冷やや
かな者なのではないか"
と。そんなメッセージでした。私はたいへんな衝撃を受けました。「ラザロと金持ち」の話から、このようなメッセージを聞いたのは初
めてだったのです。
しかし、考えてみると、まことに先生の言われる通りなのです。どうしてこんなに明らかなことに今まで気がつかなかったのだろう、と
思いました。
そして私はそのとき、さらに、もう一つの確信を得たのです。それは、やはりこの金持ちのいたところは、地獄ではなく、よみなのだ、
ということです。
地獄とよみの違いは、先の黙示録二〇・一四の「よみ(ハデス)は火の池に投げ込まれた」という聖句からも明らかですが、この金持ち
のいた場所は、やはり地獄ではなく、よみだったのだ、という深い確信が与えられました。
というのは、よみの「苦しみの場所」の苦しみは、地獄の苦しみに比べれば、まだはるかに軽いのです。
第一に、金持ちはアブラハムとの間に会話をもっています。そこは、会話を持てる程度の苦しみなのです。
第二に、金持ちは、自分の人生を後悔しています。そこは、自分の人生を振り返るのをさまたげない程度の苦しみに、抑えられているの
です。
よみは、地獄のような最終的刑罰の場所ではなく、最後の審判の法廷に向けて、人々に人生を振り返る時を与えるための場所だからで
す。そこは「懲らしめ」(第二ペテ二・九)の場所ではあっても、最終的刑罰の場所ではないのです。
第三に、金持ちは、植竹先生の言われるように、愛を示しています。自分には何の得もないのに、兄弟たちを心配して、とりなしている
のです。
しかし、もしこれが地獄なら、そのようなことがあり得るでしょうか。地獄には、苦しみだけがあるのです。
けれども、よみでは、たとえ「苦しみの場所」であっても、なお人々に善性が見られます。そして、愛さえ見られることがあるのです。
それは、そこにはなお神の恵みがあるからです。かつてダビデは、詩篇の中で言いました。
「たとい・・・・私がよみに床を設けても、そこにあなた(神)はおられます」(詩篇一三九・八)
と。よみには、なお神の恵みがあるのです。しかし、地獄にはもはや神の恵みは一切ありません。地獄においては、神との関係は断絶し
ているのです。
それで地獄の魂は、もはや正常な知情意の営みが出来ません。そこにはもはや正常な人格的営みはなく、感じられるのは、ただ苦しみだ
けなのです。
しかし、よみでは、たとえそれが「苦しみの場所」のように最も苦しみの多い場所であっても、なお魂は正常な営みをしているのです。
そこの苦しみは、地獄の苦しみに比べれば、まだはるかに軽いのです。
私はしばしば、よみの「苦しみの場所」の場所と地獄との違い、また、よみの慰めの場所と天国との違いについて聞かれます。よみの苦
しみの場所と地獄との違いは、今述べた通りです。
では次に、よみの慰めの場所と天国との違いはどうでしょうか。
よみの慰めの場所は、夜のような世界、一方、天国は昼のような世界です。
私たちは夜、一日の労苦を終えて、部屋を暗くし、静かにして、体を休めるために寝床に入ります。よみの慰めの場所は、そのような静
かな夜の安息に似ています。旧約の聖徒たちは、しばらくそのような安息を、「よみ」の慰めの場所で得ました。
一方、天国は、神の栄光が輝きわたっている昼の世界です。そこでは人々の命は、最高の充実と、躍動と、輝きを得るのです。
クリスチャンは死後、この天国に入ります。それはすでに、キリストの十字架の血潮の贖いを受けているからです。
よみは留置場、地獄は刑務所
もう一つ、よみと地獄との違いについて、お話ししておきましょう。
よみは、たとえて言うなら留置場のようなものです。地獄は刑務所のようなものです。
犯罪人は、まず留置場に入れられます。それから裁判があります。裁判があって、刑が確定すると、刑務所に入れられます。
裁判の前に入れられるのが留置場、裁判で刑が確定してから入れられるのが、刑務所です。
今日、未信者は死後は「よみ」に行っています。「よみ」は、ある種の"留置場"のようなものです。
人々はそこに留め置かれ、世の終わりに開かれる「最後の審判」と呼ばれる裁判の法廷を待っているのです。
一方、地獄は、その神の法廷で有罪と認められた人々が、最終的に入れられる"刑務所"のようなものです。
よみと地獄の違いは、このように裁判の前の場所と、裁判の後の場所と考えてよいでしょう。
世の終わりの最後の審判と呼ばれる裁判の時まで、死んだ未信者は
よみのそれぞれの場所に留め置かれているのです。それは彼らに、自分の人生を振り返る機会を与えるためです。
あの金持ちが自分の人生を振り返って、利己的だった自分を後悔したように、そのような時が与えられるためです。
そして世の終わりに、「最後の審判」と呼ばれる、神の裁判の法廷が開かれます。
未信者は、そのとき神の公平な「さばき」を受けます。しかし、みなさん。注意して下さい。
聖書でいう「さばき」とは、必ずしも"罰を与える"という意味ではないのです。それは"裁判をする"という意味です。
たとえば旧約聖書に、「モーセは民をさばいた」と記されていますが、これはモーセが民に罰を与えたという意味ではありません。モー
セが民のための裁判を行なった、という意味なのです(出エ一八・一三、一六。ほかにも伝道一二・一四、エレ二一・一二、Uテモ四・八
等参照)。
裁判ですから、罰を与えることもありますが、赦しを与えることもあります。有罪宣告をすることもありますが、無罪を言い渡すことも
あるのです。
「最後の審判」と呼ばれる世の終わりの神のさばきの時も、そのような時なのです。それは裁判の時です。
それは未信者の行く末に関する神の最終的判断が下されるとき、神の公平な評価が下される時です。
世の終わりに、ハデスすなわち「よみ」から、すべての未信者が出されて、神の裁判の法廷に立たされます。
神はそのとき彼ら一人一人に、公平で、真実、また憐れみに満ちた、適切な裁判をなさるでしょう。それはご自身の憐れみと、愛と、義
のご性質に矛盾しない、真実な裁判となるのです。
神がそのとき問われるのは、救い主イエス・キリストに対する各人の態度です。救い主キリストを通して以外に、罪の赦しはないので
す。
その裁判のあとに、ハデス、すなわち「よみ」は地獄に捨てられます。それは空のハデスです。未信者を入れたままのハデスが、地獄に
捨てられるわけではありません。
ハデスが捨てられる前に、未信者はすでに神の裁判の法廷に立たされているのです。その神の裁判が終わった後、空になったハデス、す
なわち「よみ」は地獄に捨てられるのです。
未信者の最終的な行き先は、世の終わりの最後の審判と呼ばれる裁判の法廷において、決められます。
その時までは、未信者は「よみ」という中間状態にあるのです。彼らはすでに「地獄」という最終的刑罰に入っているわけではありませ
ん。
ハデスが地獄なら、おかしなことになる
私は以前、「未信者は死の直後に地獄に行ってしまっていて、すでに滅びているのだ」と思っていました。しかし、聖書を見ると「最後
の審判」と呼ばれる裁判が、世の終わりにあると書いてあるではありませんか。
そして未信者はそのときに裁判を受けるのだ、と書いてある。もし、未信者がすでに地獄という最終的・永遠的刑罰に入っているのな
ら、いったいどうして裁判があるのでしょうか。
みなさん、死刑がすでに確定している人を、もう一度裁判にかける国が、いったいどこにありますか。すでに有罪と決定している人を、
もう一度裁判にかける国が、いったいあるでしょうか。
ありません。ましてや神の国においてはそうです。世の終わりに最後の審判という神の裁判の法廷が開かれるのは、そのとき未信者の最
終的な行き先を決定する必要があるからです。
そのときまでは、未信者は「よみ」の中間状態に留め置かれているのです。未信者の最終状態は、世の終わりになって決まります。
みなさん、世の終わりの最後の審判の裁判が開かれるとき、あの金持ちの最終的行き先はどうなるのでしょうか。
金持ちが示したあの愛が、そのとき、愛なる神に顧みられるとしても、決して不思議なことではないと私は信じています。
あの金持ちは、すでに滅びたのではありません。彼はまだ中間状態にあるのです。彼の最終的な行き先は、世の終わりの最後の審判の法
廷で、神ご自身がお決めになることです。
終末論がおかしくなったとき、死後観もおかしくなった
人は死ぬと、クリスチャンは天国に行き、そうでない人は「よみ」に行きます。
クリスチャンは天国の国民ですから天国に行き、そうでない人は天国の国民ではありませんから、一般的な死者の世界である「よみ」に
行くのです。
そして世の終わりに、最終的には、「天国」(神の国)と「地獄」(火の池)の二つだけになります。「よみ」はそれまでの一時的な世
界なのです。
私はこの聖書理解を得たとき、本当に死後の世界がはっきりと見えてきました。これは非常に大切な理解なのです。
今日、死後観は多くの人の間でたいへん混乱しています。しかし、正しい死後観を持つことは、私たちの人生にも、また伝道にも不可欠
です。
じつは、今日の死後観の混乱は、中世以来のものです。
教会が堕落していた中世の時代には、教会から終末論がなくなってしまいました。そして終末論がなくなったとき、死後の世界観もおか
しくなってしまったのです。
中世の人々は、聖書でいう「世の終わり」とか「終末」とかは、一種のたとえのようなもので、文字通りには起きないと考えるように
なっていました。
この世はいつまでも続く、とも考えられるようになりました。キリストの再臨の教理も、ぼやけていました。
世界の終末とかキリストの再臨とかは、ほとんど語られなくなりました。あの宗教改革者カルヴァンでさえ、聖書六五巻の注解書は書い
たのに、ただ一つ、「ヨハネの黙示録」の注解書だけは書きませんでした。
こうして終末論がなくなってしまうと、人々は聖書の言っている終末論的な事柄を、みな死の直後のことに結びつけて考えてしまうよう
になったのです。
地獄に関しても、聖書はそれを終末的な場所として述べているのに、死の直後の場所として考えてしまう過ちに陥りました。そしてやが
て人々は、
「人間は死の直後に天国と地獄のどちらかに振り分けられる」
と理解するようになってしまったのです。しかし、これは聖書の教えではありません。
人間は死の直後には、まず天国と「よみ」に分けられるのです。「よみ」の人々の最終的行き先が決まるのは、世の終わりにおいてで
す。
聖書の終末論を正しく理解するなら、地獄(火の池)は死の直後の場所ではなく、世の終わりの最後の審判の後の場所なのです。
ハデスを地獄と考えることも、過ちです。ハデス、すなわち「よみ」は、世の終わりに地獄に捨てられてしまうものだからです。
よみと地獄との混同が広まった背景には、「英欽定訳」(king James Version)の存在もあります。
英欽定訳は、英語圏で非常に権威あるものとされた訳で、一七世紀につくられました。それは確かに優れた面も多かったのですが、たと
えばルカ一六・二三を、「金持ちはhell(地獄)に行った」と訳してしまいました。
この欽定訳は、ほかの言語への翻訳においても、模範的な教科書のようにみられました。そのため、またたく間に世界中に、「よみ」と
地獄の混同が広まってしまったのです。
最近の英語訳では、原語に忠実なものはこの箇所を、「金持ちはhades(よみ)に行った」と訳しています。そのように訳すのが正
しいのです。
しかし、ハデスと地獄との混同が、今日も完全に人々の間から消え去ったわけではありません。
聖書をわかりやすくしたという点では大きな功績のある「リビングバイブル」も、ハデスと地獄を完全に混同して訳しています。リビン
グバイブルもまた、「金持ちは地獄(hell)に行った」と訳してしまっているのです。
しかし金持ちが行ったのは、地獄ではなく、「ハデス」すなわち「よみ」です(ルカ一六・二三)。
ただし幸いにも、日本の学者の中には、よみと地獄の違いを認めている人が多いようです。
新改訳聖書には、ヨハネ黙示録のあと、一番最後に「あとがき」がついています。その「あとがき」に、こう記されています。
「新約聖書で『ハデス』『ゲヘナ』と訳出されているのは、それぞれ、『死者が終末のさばきを待つ間の中間状態で置かれる所』『神の
究極のさばきにより、罪人が入れられる苦しみの場所』をさすが、適切な訳語がないために音訳にとどめたのである。
しかし旧約聖書では、新約の『ハデス』に対応する『シェオル』を『よみ』と訳した。これらの訳語の統一については、さらに検討が必
要であろう」
と。このように新改訳聖書の訳者となった学者は、ハデスとゲヘナの違い、つまり「よみ」と「地獄」の違いを、はっきりと述べている
のです。
私たちも、よみと地獄との違いについて、はっきりと理解しなくてはなりません。以前、ある人が、
「私は一度死んで地獄を見てきました」
ということを言っていました。しかし、私たちはそのような言葉を真に受けてはいけません。その方が死後の世界を何かしら垣間見たの
だとすれば、それは地獄ではなく「よみ」でしょう。
私は、「よみ」と「地獄」の違いを説いていることで、人から文句を言われたこともあります。「そのようなことを言うと伝道に支障が
あります。未信者は死後すぐに地獄に行くと説いた方がいい」というのです。
しかし、聖書の教えでないことを言い広めて、良い伝道ができるでしょうか。むしろ、「よみ」と「地獄」の違いをはっきり認識し、正
しい死後観に立ってこそ、本当に大胆な良い伝道が出来ると私は信じているのです。
以前、レムナント誌を読んだある方が、「よみ」と「地獄」の違いがはっきりわかって、今は亡き母(未信者だった)の行く末について
幼い子どもに対しても明確なことを語ることができました、と言っておられました。
この地上で回心することの意義
最後に、私たちがこの地上で生きているうちに回心することの意義について、お話ししましょう。
私たちがこの地上で、生きているうちに回心することには、どんな意義があるのでしょうか。
みなさん、私たちの前には二つの道があるのです。一つは永遠の命の道、天国への道です。もう一つは、滅びへの道です。
もし私たちがこの地上で、生きているうちに回心するなら、永遠の命の道、天国への道をすでに歩んでいるのです。
永遠の命の道、天国への道は、この地上に始まります。あなたはもうその道を歩んでいますか。
クリスチャンは死後「よみ」に下ることはないのです。クリスチャンはみな、死後は「天国」に行きます。
あなたは地上にいる時から、永遠の命の道、天国への道を歩まなければ、もう決してその道を歩めないかも知れません。
死んでから回心すればいいや、とあなたは思ってはいけません。
あなたは、運動会や競技会で戦うとき、「あとで敗者復活戦があるから、適当にやればいいや」と思いますか。もしそのような気持ちで
やれば、勝つことはできないでしょう。
人生もそうです。今、現在を真剣になることができなければ、もうあなたは永遠に天国への道を歩むことができないかも知れないので
す。
あなたが天国に入れなければ、あなたの人生はいったい何だったのでしょうか。あなたが天国に入ってこそ、あなたの人生は大きな意義
を持つのです。
また、私たちがこの地上で生きているうちに回心することには、もう一つの意義があります。
キリスト教とは、ただ単に天国に行ければそれでいい、というだけの世界ではありません。福音とは、この地上で生きているうちに、神
の子としての祝福に満ちた幸福を体験することにあるのです。
それには、あなたは生きているうちに回心しなければなりません。死んでからでは、その祝福は体験できないのです。
あなたの人生の年月は限られています。定められているのです。時は縮まっています。時は近づいています。
あなたは、残りの自分の人生がどれだけあるかを知りません。あなたはこれまで何をしてきたでしょうか。どれだけ神のために、人のた
めに、愛のために、真理のために生きてきたでしょうか。
私たちは残りの生涯を、偉大な造り主である神に、また愛する救い主であるキリストに捧げようではありませんか。そして、その愛と真
理の教えに生きようではありませんか。
父なる神は、あなたを「わが子よ」と呼んで下さいます。あなたは神の子となるのです。
この地上で生きているうちに、神の子としての祝福に満ちた幸福を体験することこそ、あなたがこの世に生まれた目的なのです。聖書は
言っています。
「あなたの若き日に、あなたの造り主を覚えよ」(伝道一二・一)。
あなたはこの地上で生きているうちに回心し、神を信じ、キリストに従って、愛と真理に生きなければなりません。そしてその回心は、
早ければ早いほどよいのです。
私たちは、モーセと預言者たちとに聞き従い、イエスを信じるべきです。モーセと預言者たちが証しをなし、また予言したお方は、イエ
ス・キリストなのです。モーセと預言者たちとに聞き従い、私たちは生きているうちに、イエス・キリストを信じるべきです。
あなたは力強く、自分の人生を切り開いていけるようになります。主イエスがあなたと共におられるからです。
やがて定められた時には、あなたは天国という、天にある私たちのふるさとに帰るでしょう。今日から、あなたも主イエス・キリストの
お与えになる永遠の命の道を歩みましょう。
久保有政 著
|