[2005.10] [おもいつき] [ほーむ]
[2005.09]

おもいつきのきろく

2005.10

If you can't change the world change yourself
If you can't change the world change yourself
If you can't change the world change yourself
And if you can't change yourself ...
Then change the world
from "Lonely Planet" (Lyric by Matt Johnson @ The the)

<宿題&予定>

2005-10-31(月)

曇りのち晴れ。

家賃振込み。

仕事が人をつくる」読了。

「障害者自立支援法」が衆院本会議で,自・公の賛成多数で可決,成立。また,社会保障制度の改悪。長期・重度の病を患っていいのは金持ちだけか。

_/_/_/_/_/

2005-10-30(日)

曇り一時晴れ。

3冊受取り。

某 ISP メールサーバの受信メール限度数,5000 は多過ぎたようなので,月初に変更したのから,元に戻す。

_/_/_/_/_/

2005-10-29(土)

曇り。夕方になって雨。のち曇り。

1冊受取り。

_/_/_/_/_/

2005-10-28(金)

晴れ。

_/_/_/_/_/

2005-10-27(木)

朝方雨。のち曇り。

銀行ATM で入金。

鼻づまり等風邪気味の症状がまだ残っていたので,通院。市の検診か何かの時期にぶつかったらしく,えらく混んでいて,診断までかなり待たされる。待っている間に,自動血圧計で測定すると,131/85。まだ下が高い。看護師さんから体温計を渡されて測ってみると,36.7〜37.2℃の間を行ったり来たり。平熱は低めの方なはずなので,熱があることはたしか。こっちは風邪 (?) の話で来たのに,今日の担当医さんの興味は,主に前回 (10/19) の採血結果。2ヶ月以上も禁酒したところでの採血だったのに,GOT,GPT,γ-GTP 等,前々回 (08/30) より改善するどころか,少しだけ悪化している。ということで,今日も採血 (今回の看護師さんは,一発で決めてくれた :-P)。風邪の方は,鼻づまりのと解熱のと薬 2種類処方,それに「栄養と休養」。う〜む。

晩ごはん。豚丼とん汁おしんこセット (大盛) @すき家

_/_/_/_/_/

2005-10-26(水)

曇り。午後になって,雨。

予想的中で,どうやら風邪気味のようだ。咳・くしゃみ・鼻水,少し熱。一応,葛根湯の錠剤を飲んでおく。近所のドラッグストアに行って,風邪薬等購入。

救命センター当直日誌」読了。

板谷バカ三代」読了。

_/_/_/_/_/

2005-10-25(火)

晴れ。

通院。クスリ変わらず。どうもこの頃,問診の態度がそっけないような…。気のせいかな。処方箋持って,薬局へ。混んでいる。

5冊購入。

Pao。ローソン。

夕方くらいから,少々寒気。室内の気温は, 20℃以上あるのに。風邪の予兆か?

_/_/_/_/_/

2005-10-24(月)

晴れときどき曇り。

_/_/_/_/_/

2005-10-23(日)

晴れ。

イトーヨーカドー昼ごはん。牡蠣フライ定食。角上魚類。ヤオフジ。Seria 生活良品 (百円ショップ)。

晩ごはん。牡蠣鍋。

_/_/_/_/_/

2005-10-22(土)

曇りときどき雨。

晩ごはん@サイゼリヤ

22:12頃,福島県沖 (37.1°N / 141.2°E / 深さ 50km) を震源とする地震。M5.5。この辺りの「区域」としては震度 2。

_/_/_/_/_/

2005-10-21(金)

曇りときどき晴れ。

1枚受取り。

_/_/_/_/_/

2005-10-20(木)

晴れ。

_/_/_/_/_/

2005-10-19(水)

曇り。

通院。採血。採血の結果は 1週間後には出るけれども,聞きに来るのは,1ヶ月後でもよいとのこと。あまり静脈が皮膚上に浮き出ていない私の身体が元々の要因なのだろうけれど、看護婦^h師さんが (おそらく) ミスって「あれ,これじゃ痛いですよね」 (たしかに僅かに痛かったが,採血の注射針へのちょっと感覚が鈍って or 慣れてきているから,何とも言えない),で,反対の腕から,採血し直し。そういえば,某社従業員 (厳密にいえば,「会社員」と「従業員」は重なることもあるだろうが,定義は異なるはず) としての健康診断受診では,毎度,「血液検査もあればいいのに」と言われてる気がする。何年か前の人間ドック以来,「通常」での採血検査は,たしかに無経験。従業員の「健康」をチェック・回復する努力をするか、維持できない者は切り捨てるのか、そういうのは,或る意味,私企業としては,「経営方針」の一部・下部なのかもしれない。従業員個人の (潜在的なものも含めての) パフォーマンスを妥当評価できないのなら,切り捨ててしまう方が「ラク」っていえばそれはそうだろう。

13冊購入。

スーパー寄って,食料調達。

1セット受取り。

「LONDON TOWN 1983-1993」Boxed set には,以下の 4枚のアルバムがリマスター & リパッケージされ,オマケで CD EXTRA が収録されている (リストの各アルバム名は,Amazon.co.uk にリンク)。

「CD EXTRA」フォーマットの EXTRA CD は,これまで持っていなくて当然だけれど,実は,それ以外の 4枚は,全部,1980年代からのオリジナル (ほぼ日本版だったりはするが) を所持していたりするのだけれど。しかも,「This is The The Day (http://www.thethe.com/)」にある「Jukebox」で,これ以外 (「BURNING BLUE SOUL」「SOLITUDE」「HANKY PANKY」「NAKEDSELF」「45RPM」「STRETCED」) も全曲聴けたりする。「STRETCHED」っていうのだけ,CD 持ってないな。というか,CD になってたかどうか。某所にある「45RPM」の「2」ってのも何なんだ? 「volume 2」だったりするのか? The The は,「INFECTED」のオリジナルの「ジャケットを見て」買った & 知ったのだけれど,(これも) やはり今になって聴いてもまだワクワクする (Matt Johnson はどうしたのだっけ? たしか,英国の業界への嫌悪から米国に移って,多少仕事していたはずだけれども)。UK版も日本版もジャケット絵が見つからなかったので,Amazon.co.jp の US版へのリンクを以下に (この絵で「ジャケ買い」した当時のわたしもわたしだ)。

「LONDON TOWN」リリース当時の公式ページのバックナンバー。

しかし,それにしても,検索しづらい名前<「The the」。オンライン・ショップでなく,real world のショップの棚でも,「T」で探せばいいのか「さ行」で探せばいいのか,よく {困る | 困った} (大抵,「the」は省くからね)。Ths Smiths が解散して,Johnny Marr が加わった頃には,まだ棚に並んでるのを見かけたのだけれど。

from "Slow Emotion Replay" (Lyric by Matt Johnson)。

Everybody knows what's going wrong with the world
But I don't even know what's going on in myself

郵便投函ついでにローソン寄って,1冊購入。

20:44頃,地震。震源は茨城県沖 (36.4°N / 141.0°E / 深さ 40km)。M6.2。ウチの辺りの震度は,先日の地震と同様,「市」としては 3,より広域の「区域」としては 4。茨城県南部では,震度 5弱だったらしい。

_/_/_/_/_/

2005-10-18(火)

雨。

下水道料金支払い。

_/_/_/_/_/

2005-10-17(月)

雨。「秋の長雨」という言葉があるけれども,今年は梅雨より余程雨の日が多い気がする (「調べて」はいないが)。気温も次第に下がってきて,とっくに「涼しい」を過ぎている。

_/_/_/_/_/

2005-10-16(日)

雨のち曇り。深夜になってまた雨。

プランターのミニトマト,片付け。「おいしいミニトマトをありがとう。ごちそうさまでした」。

16:05頃,茨城県南部を震源とする地震。震源地 36.1°N / 139.9°E / 深さ 40km。M5.1。ウチの辺りの震度は,「市」としては 3,より広域の「区域」としては 4。。

「共謀罪」の衆院法務委員会審議入りについて,河北新報(Kolnet)「社説」「「共謀罪」審議入り/決して容認できない内容だ」[2005/10/15] より。

与党内でもまだ検討が必要だという「健全」な意見もあるようだが,仮に「数で押し切」られることがあれば,そのツケを払うのは,政・官ではなく,「暴力団や振り込め詐欺グループ、テロ組織」でもなく,その「数」を先の総選挙で与えた一般の有権者側かもしれない。

_/_/_/_/_/

2005-10-15(土)

曇りのち晴れ。夜,雨。

phone & facsimile 送信 "Have a lovely birthday"。

NTT 電話料金支払い。

2冊購入。

3冊受取り。

「シャッターは真実を切り取る」。切り取られた「残り」はどうなる?

_/_/_/_/_/

2005-10-14(金)

晴れのち曇り。

「郵政民営化法案」,自公の賛成多数で参院通過へ。この「民営化強行騒ぎ」,前島密やバベッジは,草葉の陰からどう見ていることだろうか。「郵便」は「官営」としたのは何故だったのだっけ。前島密といえば,武部 "BSE" 勤の「紙芝居」に「出演」させられていたのは,あまりな侮辱。

「障害者自立支援法案」,参院本会議で自公明両党の賛成多数で可決。衆院でも可決されてしまうことだろう (先の総選挙で過半数を手にした自民党が否決させるとはとても思えない)。身体・知的・精神の障碍種別によらず,収入に応じた負担でもなく,原則一括で 1割負担。現行の公費補助は廃止になってしまう。「応益負担」というけれども,長期・高価な治療を必要とする場合には,金持ちでないと,充分な治療を受けることもできなくなっていくわけだ。日本という国の福祉は,弱者を切り捨てることによって (偽の) 維持を図っていくのか。「富の再配分」という言葉も知らなさそうな政・官に,社会制度を任せているからこうなっていくのだろう。経済学や文化人類学の基礎も知らない「エリート」供に。

_/_/_/_/_/

2005-10-13(木)

晴れ。

デジタルカメラのファイルをコピー & 葉書にプリントアウト。で,この葉書 1枚投函。私信で「郵便」を使うのも久しぶり。最近は,「宅配便」も「受取る」ばかりで「送る」ことはまず無いのだけれど。

_/_/_/_/_/

2005-10-12(水)

晴れ。

サッカー。ウクライナ代表 vs. 日本代表の国際親善試合は 1-0。中田浩二の一発レッドカードや,決勝点に繋がる 90分の PK 判定等,レフェリーに問題 (主審はラトビアのラユックス)。「アウェーだから」といえばそうなのだけれども,酷すぎ。日本代表側の課題として,あえて言えば,やはり FW がシュートを打てないこと (だから,柳沢じゃ…)。10人になってからの運動量増の不足。ウクライナ代表はシェフチェンコ (ACミラン) を欠いていたわけだし。

_/_/_/_/_/

2005-10-11(火)

曇り。

通院。2〜4週間程,「様子見」。クスリ変わらず。

薬局で 1冊購入。

8冊購入。

銀行ATM で入金。

3(+1)枚購入。

郵便局で引出し。スーパーで買い物。

_/_/_/_/_/

2005-10-10(月)

雨。

移動 (9078B) 7-3-A。

1冊購入。

特集タイトルが笑わせるので読んでみようと<「【決定版】日本敗れたり あの戦争になぜ負けたのか」。「戦後」60年経って未だこれかい? 「勝つ」気でいたという方が (「勝利」の定義すら怪しいのに) 今更何をか言わん。

メインのメールサーバのメール数は 579。幾ら何でも 5000 は多過ぎたようだ。

_/_/_/_/_/

2005-10-09(日)

曇り。

東北楽天ゴールデンイーグルスの次期監督。仮に,野村克也になったとして,地元のファンは,田尾安志のときのようにチームを「愛せる」のかどうか。選手もコーチもかなり入換えられて (野村克也は,コーチ陣の全取替えを要求しているらしいし),まるで別のチームのようになっても。

泉ヶ岳。秋桜,桔梗等。

Kikyo @ Izumiga-take 桔梗。

Kikyo @ Izumiga-take 桔梗。

プライス。

昼ごはん@かっぱ寿司

ジャスコの酒類売場のドン・シボリオーネ (namashibori.com) のぬいぐるみ,東北楽天ゴールデンイーグルスのユニフォームを着ている。

Don_Shiborione @ Jusco

ダイソーで 510ml のグラス購入。

晩ごはん。とんかつ。

_/_/_/_/_/

2005-10-08(土)

晴れのち曇り。

返事の来ないことは半分予想しながらも,「元気ですか?」とメール。あの駅で乗換えをする度,今でも逆の線に乗りたくなる気持ちがあったりする。もう,その先にはいないことは分かっていても。

_/_/_/_/_/

2005-10-07(金)

曇り。

月曜日の移動のための切符購入のため,長町駅へ。

白菜等収穫の手伝いを少々。

_/_/_/_/_/

2005-10-06(木)

曇り。

右脹脛攣って,目が覚める。

定義山 (定義如来)。お賽銭も普段より (僅かだけど) 多めに。文殊菩薩や阿弥陀如来は,何進数で数を数えるのかしらん?

Johgi-san Hondoh 定義山西方寺本堂。

Johgi-san Goju-no-tou 定義山西方寺五重塔。

秋保大滝。秋保大滝不動尊にも参拝。

Akiu Ohtaki 秋保大滝。

坂口安吾「堕落論」(角川文庫版 ISBN:4-04-110003-8) 所収,「青春論」(1942.11,12『文学界』発表) より。「一 わが青春」から。p.38 l.1〜。

 今が自分の青春だというようなことを僕はまったく自覚した覚えがなくて過ごしてしまった。いつの時が僕の青春であったか。どこにも区切りが見当たらぬ。老成せざる者の愚行が青春のしるしだと言うのならば、僕は今もなお青春、おそらく七十になっても青春ではないかと思い、こういう内省というものは、決して気持ちのいいものではない。気負って言えば、文学の精神は永遠に青春であるべきものだ、と力みかえってみたくなるが、文学文学と念仏のように唸ったところで我が身の愚かさが帳消しになるものでもない。生まれて三十七年、のんべんだらりとどこにも区切りが見当たらぬとは、ひどく悲しい。生まれて七十年、どこにも区切りが見当たらぬ、となっては、これまた助からぬ気持ちであろう。ひとつ区切りをつけてやろうか。僕は時にこう考える。さて、そこで、しからば「いかにして」ということになるのであるが、ここに至って再び僕は参ってしまう。たぶん誰でも同じことを考えると思うけれども、僕もまた「結婚」というひとつの区切りについてまず考える。僕は結婚ということに決して特別の考えを持ってはおらず、こだわった考え方もしてはおらず、自然に結婚するような事情が起これば、いつでも自然に結婚してしまうつもりなのである。けれども、それで僕の一生に区切りができるであろうか。たぶん区切りはできないと思うし,かりに区切りができたとしても、その区切りによって僕の生活が真実立派になるということは決してないと考える。僕は愚かだけれども、その愚かさは結婚に関係のない事情にもとづくものである。結婚して、子供も大きくなって、七十になって、そうして、やっぱり、青春 − どこにも一生の区切りがない,これは助からぬ話だと僕は恐れをなしてしまう。
 青春再びかえらず、とはひどく綺麗な話だけれども、青春永遠に去らず、とは切ない話である。第一、うんざりしてしまう。こういう疲れ方は他の疲れとは違って癒しようのない袋小路のどんづまりという感じである。

p.44 l.2〜。

 三好達治が僕を評して、坂口は堂々たる建築だけれども、中に這入ってみると畳が敷かれていない感じだ、と言ったそうだ。近ごろの名評だそうで、僕も笑ってしまったけれども、まったくお寺の本堂のような大きなガランドウに一枚のウスベリも見当たらない。たいせつな一時間一時間をただ何となく迎え入れて送りだしている。実の乏しい毎日であり、一生である。土足のままヌッと這入り込まれて、そのままズッと出て行かれても文句の言いようもない。どこにも区切りがないのだ。ここにて下駄をぬぐべしというような制札がまったくどこにもないのである。
 七十になっても、なお青春であるかもしれぬ。そのくせ老衰を嘆いて幽霊になるほどの実のある生活もしたことがない。そのような僕にとっては、青春というものが決して美しいものでもなく、また、特別なものでもない。しからば、青春とは何ぞや? 青春とは,ただ僕を生かす力、もろもろの愚かなしかし僕の生命の燃焼を常に多少ずつ支えてくれているもの、僕の生命を支えてくれるあらゆる事どもがすべて僕の青春の対象であり、いわば僕の青春なのだ。

p.44 l.14〜。

 愚かと言えば常に愚かでありまた愚かであった僕であるゆえ、僕の生き方にただ一つでも人並みの信条があったとすれば、それは「後悔すべからず」ということであった立派なことだから後悔しないというのではない。愚かだけれども、後悔してみても、所詮立ち直ることのできない自分だから、後悔すべからず、という、いわば祈りに似た愚か者の情熱にすぎない。牧野信一が魚籃坂上にいたころ、書斎に一枚の短冊が貼りつけてあって「我事に於て後悔せず」と書いてあった。菊池寛氏の筆であった。その後、聞くところによれば、これは元来宮本武蔵の言葉だということであったが、このように堂々と宣言されてみると、宮本武蔵の後悔すべからず、と、僕の後悔すべからずではだいぶ違う。「葉隠れ論語」によると、どんな悪い事でもいったん自分がやらかしてしまった以上は、美名をつけてごまかしてしまえ,と諭しているそうだけれども、僕はこれほど堂々と自我主義を押し通す気持ちはない。もっと他人というものを考えずにはいられないし、自分の弱点について、常に思いをいたし、嘆かずにもいられぬ。こういう「葉隠れ論語」流の達人をみると、僕はまっさきに喧嘩がしたくなるのである。
 いわば、僕が「後悔しない」と言うのは、悪業の結果が野たれ死にをしても地獄へ落ちても後悔しない、とにかく俺の精いっぱいのことをやったのだから、という諦めの意味にほかならぬ。宮本武蔵が毅然として「我事に於て後悔せず」という、常に「事」というものをハッキリ認識しているのとは話がよほど違うのだ。もっとも、我事に於て後悔せず、という、こういう言葉を編みださずにはいられなかった宮本武蔵は常にどれくらい後悔した奴やら、この言葉の裏には武蔵の後悔が呪いのように聴えてくる
 僕は自分の愚かさを決して誇ろうとは思わないが、そこに僕の生命が燃焼し、そこに縋って僕がこうして生きている以上、愛惜なくして生きられぬ。僕の青春に「失われた美しさ」がなく、「永遠に失われざるための愚かさ」があるのみにしても、僕もまた、僕の青春を語らずにはいられない。すなわち、僕の青春論は同時に淪落論でもあるという、そのことは読んでいただければわかるであろう。

「二 淪落について」から。p.46 l.1〜。

 日本人は小役人根性が旺盛で、官僚的な権力を持たせるとたちまち威張り返ってやりきれぬ。というのは、近ごろ八百屋だの魚屋で経験ずみのことで、万人等しく認めるところだけれども、八百屋や魚屋に縁のない僕も、別のところではなはだこれを痛感している。
 電車の中へ子供づれの親父やおふくろが乗り込んでくる。あるいはお婆さんを連れた青年が這入ってくる。誰かしら子供やお婆さんに席を譲る。すると間もなく、その隣の席があいた場合に、先刻、子供や婆さんに席を譲ってくれた人がそこに立っているにもかかわらず、自分か、自分の連れをかけさせてしまう。よく見かける出来事であるが、先刻席を譲ってくれた人に腰かけてもらっている親父やおふくろを見たためしがないのである。
 つまり子供だのお婆さんだのへの同情に便乗して、自分まで不当に利得を占めるやからで、こういう奴らが役人になると、役人根性を発揮し、権力に便乗してしようのない結果になるのである
 僕ははなはだ悪癖があって、電車の中へ婆さんなどがヨタヨタ乗り込んでくると、席を譲らないといけないような気持ちになってしまうのである。けれども、ウッカリ席を譲ると、たちまち小役人根性の厭なところを見せつけられて不愉快になるし、そうかといって譲らないのもあまり良い気持ちではない。要するに、こういう小役人根性の奴らとは関係を持たないに限るから、電車がガラ空きでないかぎり、僕は腰かけないことにしている。少しくらいくたびれても、こういう厭な連中と関係を持たない方が幸福である。

「小役人根性」がどうなのか分からないが,「電車がガラ空きでないかぎり、僕は腰かけないことにしている」のは同じ。席を譲ろうとすると不愉快な言動をする輩もいるし,譲った席の隣が空いた際に身内を優先する図々しさを目にすることが多いのも同じだし,そこで不快に思う自分が嫌になるのも避けたいことでもあるし。

p.48 l.3〜。

 けだし、大人の世界において、犠牲とか互譲とかいたわりとか、そういうものが礼儀でなしに生活として育っているのは淪落の世界なのである。淪落の世界においては,人々は他人を傷つけることの罪悪を知り、人の窮迫にあわれみと同情を持ち、口頭ではなく実際の救い方を知っており、また、行なう。また、彼らは人の信頼を裏切らず、常に仁義というものによってのみずからの行動を律しようとするのである。
 とはいえ、彼らの仁義正しいのは主として彼ら同志の世界においてだけだ。一足彼らの世界をでると、つまり淪落の世界に属さぬ人々に接触すると、彼らは必ずしも仁義を守らぬ。なぜなら淪落の人々はおおむね性格破産者的傾向があるし、またいくらかずつ悪党で、いわば自分自身を守るために、同僚を守ったり、彼らの秩序を守ったりするけれども、外部に対してまで秩序を守る必要を認めないからでもあるし、だいたいが彼らの秩序と一般家庭の秩序とは違っているから、別に他意がなくとも食い違うことができてしまう。
 乞食を三日すると忘れられない、と言うけれども、淪落の世界も、もし独立不羈の魂を殺すことができるなら、これぐらい住みやすく沈淪しやすいところもない。いわば、着物もいらず住宅もいらず、野生の食物にも事欠かぬ南の島のようなものだ。だから僕は淪落の世界を激しく呪い、激しく憎む。不羈独立の魂を失ったら、僕などはただ肉体の屑にすぎない。だから僕の魂は決してここに住むことを欲しないにもかかわらず、どうして僕の魂は、またこの世界に憩いを感じ、ふるさとを感じるのであろうか。

p.49 l.2〜。

 今年の夏、僕は新潟へ帰って、二十年ぶりぐらいで、白山様の祭礼を見た。昔の賑いはなかったが、松下サーカスというのが掛かっていた。僕は曲馬団で空中サーカスと行っているブランコからブランコへ飛び移るのが最も好きだが、松下サーカスは目星い芸人が召集でも受けているのが、座頭のほかには大人がなく、非常に下手で、半分ぐらい飛び移りそこねて墜落してしまう。[中略] 一見したところ真ん中のブランコがいちばんたいせつのようだけれども、実際は両側のブランコに最も熟練した指導者が必要でこの人が出発の呼吸をはかってやるのである。[中略] 松下サーカスは真ん中のブランコに長老が乗っているが、両側が子供ばかりで指導者がないのだ。
 落ちる。落ちる。そうして、また、登って行く。彼らが登場した時は、ただの少年少女であったが、落ちては登り、今度はという決意のために大きな眼をむいて登って行く気魄をみると、涙が流れた。まったく、必死の気魄であった。長老を除くと、その次に老練なのは、ようやく十九か二十ぐらいの少年だったが、この少年は何か猥褻な感じがして見たくないような感じだったが、この少年が最後の難芸に失敗して墜落したとき、彼が歯を喰いしばりカッと眼を見開いて何か夢中の手つきで耳あての紐を締め直しながら再び綱にすがって登りはじめた時は、猥褻の感などもはやどこにもなかった。神々しいぐらい、ただいちずに必死の気魄のみであったのである。その美しさに打たれた。

p.50 l.2〜。

 いつか真杉静枝さんに誘われて帝劇にレビューを見たことがあったが、レビューの女に比べると、あの中に現われていっしょに踊る男ぐらい馬鹿に見えるものはない。あんまり低脳な馬鹿に見えて同性の手前僕がいささかクサッていると,真杉さんが僕に向いて、どうしてレビューの男たちってあんなに馬鹿に見えるのでしょうかと,呟いた。男には馬鹿に見えても、女の人にはまた別なふうに見えるのだろうと考えていた僕は、真杉さんの言葉をきいて、女の人にもやっぱりそうなのかと改めて感じ入ったしだいである。
 ところが、僕は一度例外を見たのである。
 それは京都であった。昭和十二年か十三年。京都の夏は暑いので、僕は毎日十銭握ってニュース映画館へ這入り、一日じゅう休憩室で本を読んだりしていた。ニュース映画館はスケート場の付属で、ひどく涼しいのだ。あのころは仕事に自信を失って、何度生きるのをやめにしようと思ったかしれない。新京極に京都ムーランというレビューがあって、そこへよく身体を運んだ。まったく、ただ身体を運んだだけだ。おもしろくはなかった。僕の見たたった一度の例外というのは、だから、京都ムーランではないのである。
 京都ムーランよりももっと上手な活動小屋に這入ったら、偶然アトラクションにレビューをやっていた。小さな活動小屋のアトラクションだから、レビューははなはだ貧弱である。女が七、八人に男が一人しかいない。ところが、このたった一人の男が僕の見参した今までの例をくつがえして、この男が舞台にでると、女の方が貧弱になってしまうのである。何か木魚みたいなものを叩いてアホダラ経みたいなものを唸ったりしていたのを思い出すが、堂々たる男の貫禄が舞台にみち、男の姿がずぬけて大きく見えたばかりでなく、女たちが男のまわりを安心しきって飛んでいる蝶のような頼りきった姿に見えて、うれしい眺めであった。まったっくレビューの男にあんな頼もしい貫禄を見ようとは予期しないことであった。
 こういう印象は日がたつにつれて極端なものになる。男の印象がしだいに立派な大きなものになりすぎて、ほかのレビューの男たちがますます馬鹿に見えて仕方がなくなるのである。あれぐらいの芸人だから浅草へ買われてこないはずはなかろうと思い、もう一度見参したいと思ったが、あいにく名前を覚えていない。会えばわかるはずだから、浅草や新宿でレビューを見るたびに注意したが再会の機会がない。
 ところが、この春、浅草の染太郎というウチで淀橋太郎氏と話をした。[中略] 近ごろ我我の仲間、「現代文学」の連中は会というとたいがいこのウチでやるようなことになり、我々の大いに愛用するウチだけれども、我々のほかにはレビュー関係の人たちが毎晩飲みにくる所なのである。そういうわけで淀橋太郎氏と時々顔を合わせて話を交わしたりするようになり、ある日、京都ムーランの話がでた。そこで、雲をつかむような話で所詮わかるはずがないだろうと思ったけれども、同じころ、活動小屋のアトラクションにでた男の名前がわからないかと訊いてみた。すると、僕が呆れ果てたことにはタロちゃんちょっと考えていたが、それはモリシンです、といともアッサリ答えたものである。当時京都の活動小屋へアトラクションに出たのはモリシン以外にない。小屋の場所も人数もそっくり同じだから疑う余地がないと言うのであった。一緒にいた数人のレビューの人たちがみんあタロちゃんの言を裏書きした。モリシンは渾名で、芸名はモリカワシン、多分森川信と書くのか、そういう人であった。常に流れ去り流れ来たっているようなこの人々の足跡のひとつ、数年前の京都の小さな活動小屋の出来事がこんなにハッキリ指摘されるものだとは、僕もはなはだ面喰らった。
 僕は梅若万三郎や菊五郎の舞台よりも、サーカスやレビューを見ることが好きなのだ。それはまた、第一流の料理を味わうよりも、ただ酒を飲むことが好きなのと同じい。しかし、僕は酒の味が好きではない。酔っ払って酒の臭味がわからなくなるまでは、息を殺して我慢しながら飲み下しているのである。

p.52 l.11〜。

 人は芸術が魔法だというかもしれぬが、僕には少し異論がある。対座したのでは猥褻見るに堪えがたくて擲りたくなるような若者が、サーカスのブランコの上にあがると神々しいまでに必死の気魄で人を打ち、全然別人の奇蹟を行なってしまう。これは魔法的な現実であり奇蹟であるが、しかもこの奇蹟は我々の現実や生活が常にこの奇蹟と共にあるきわめて普通の自然であって、決して超現実的なものではないレビューの舞台で柔弱低脳の男を見せつけられては降参するが、モリカワシンの堂々たる男の貫禄とそれをとりまいて頼りきった女たちの遊楽の舞台を見ると、女たちの踊りがどんなに下手でもまた不美人でもいっこうにさしつかえぬ。甘美な遊楽が我々を愉しくさせてくれるのである。これも一つの奇蹟だけれども、常に現実と直接不離の場所にある奇蹟で、芸術の奇蹟ではなく、現実の奇蹟であり、肉体の奇蹟なのである。酒もまた、僕にはひとつの奇蹟である。

p.53 l.17〜。

 我が青春は淪落だ、と僕は言った。しかして、淪落とは右のごときものである。すなわち、現実の中に奇蹟を追うこと、これである。この世界は永遠に家庭とは相容れぬ。破滅か、しからずんば − 嗚呼、しかし破滅以外の何物があり得るか! 何物があり得ても、おそらく満ち足りることがあり得ないのだ。

p.54 l.15〜。

 実際、わが国においては、夫婦者と独身者に非常にハッキリと区別をつけている。それは決して事変このかた生めよ殖やせよのせいではなく、もっと民族的なはなはだ独特な考え方だと僕は思う。独身者は何かまだ一人前ではないというような考え方で、それは実際男と女の存在する人間本来の生活形態から言えばたしかに一人前の形をそなえておらぬかもしれぬけれども、たとえば平野謙のごとき人が、まるで思想とか人生観というものにまで、この両者が全然異質であるかのような説をなす。俗世間のみの考えでなく、平野君のごとき思索家においても、なお、かような説を当然として怪しまぬ風があるのである。
 僕はかような考え方を決して頭から否定する気持ちはない。むしろはなはだユニックな国民的性格をもった考え方だと思うのである。
 実際、思ってもみなさい。このような民族的な肉体をもった考えというものは真理だとか真理でないと言ったところで始まらぬ。実際、僕の四囲の人々は、みんなそう考え、そう生活しているのである。あるいは、そう生活しつつ、そう考えているのである。彼らは実際そう考えているし、考えているとおりの現実が生まれてきているのだ。これでは、もう、喧嘩にならぬ。僕ですら、もし家庭というものに安眠しうる自分を予想することができるなら、どんなに幸福であろうか。芥川龍之介が「河童」か何かの中に、隣の奥さんのカツレツが清潔に見える、と言っているのは、僕もはなはだ同感なのである。
 しかし、人生の孤独ということについて考えるとき、女房のカツレツがどんなに清潔でも、魂の孤独は癒されぬ。世に孤独ほど憎むべき悪魔はないけれども、かくのごとく絶対にして、かくのごとく厳たる存在もまたすくない僕は全身全霊をかけて孤独を呪う全身全霊をかけてるがゆえに、また、孤独ほど僕を救い、僕を慰めてくれるものもないのであるこの孤独は、あに独身者のみならんや魂のあるところ、常に共にあるものは、ただ、孤独のみ
 魂の孤独を知れる者は幸福なるかな。そんなことがバイブルにでも書いてあったかな。書いてあったかもしれぬ。けれども、魂の孤独などは知らない方が幸福だと僕は思う。女房のカツレツを満足して食べ、安眠して、死んでしまう方が倖せだ。僕はこの夏新潟に帰り、沢山の愛すべき姪たちと友達になって、僕の小説を読ましてくれとせまがれた時には、ほんとに困った。すくなくとも、僕は人の役に多少でも立ちたいために、小説を書いている。けれども、それは、心に病ある人の催眠薬としてだけだ心に病なき人にとっては、ただ毒薬にすぎない。僕は僕の姪たちが、僕の処方の催眠薬をかりなくとも満足に安眠できるような、平凡な、小さな幸福を希っているのだ。

p.59 l.6〜。

 僕はしだいに詩の世界にはついて行けなくなってきた。僕の生活も文学も散文ばかりになってしまった。ただ事実のまま書くこと、問題はただの事実のみで、文章上の詩というものがたえられない。
 僕が京都にいたころ、碁会所で知り合った特高の刑事の人で、俳句の好きな人があった。ある晩、四条の駅でいっしょになって電車の中で俳句の話をしながら帰ってきたが、この人は虚子が好きで、子規を「激しすぎるから」嫌いだ、と言っていた。
 けれども「仰臥漫録」を読むと、号泣又号泣したり、始めて穴をみて泣いたりしている子規が同じ日記の中で「五月雨ヲアツメテ早シ最上川(芭蕉)此句俳句ヲ知ラヌ内ヨリ大キナ盛ンナ句ノヤウニ思フタノデ今日迄古今有数ノ句トバカリ信ジテ居タ今日フト此句ヲ思イ出シテツクヾヽト考ヘテ見ルト『アツメテ』トイフ語ハタクミガアツテ甚ダ面白クナイソレカラ見ルト五月雨ヤ大河ヲ前ニ家二軒(蕪村)トイフ句ハ遥カニ進歩シテ居ル」という実のない俳論をやっている。子規の言っていることは単に言葉のニュアンスに関する一片の詩情であって、何事を歌うべきか、いかなる事柄を詩材として提出すべきか、といういちばんたいせつな散文精神が念頭にない。号泣又号泣の子規は激しいけれども、俳句としての子規は激しくなく平凡である。[中略]
 子規は単なる言葉のニュアンスなどにとらわれて俳句をひねっているけれど,その日常は号泣又号泣、甘やかしようもなく、現実の奇蹟などを夢見る甘さはなかったであろう。しかるに僕は、いっさいの言葉の詩情に心の動かぬ頑固な不機嫌を知った代わりに、現実に奇蹟を追うという愚かな甘さを忘れることができない。忘れることができないばかりでなく、生存の信条としているのである。

p.60 l.14〜。

 大井広介は僕が決して畳の上で死なぬと言った。自動車にひかれて死ぬとか、歩いているうちに脳溢血でバッタリ倒れるとか、戦争で弾に当たるとか、そういう死に方しかあり得ないと言う。どこでどう死んでも同じことだけれども、何か、こう、家庭的なものに見離されたという感じも、決して楽しいものではないのである。家庭的ということの何か不自然に束縛し合う偽りに同化のできない僕ではあるが、その偽りに自分を縛って甘んじて安眠したいと時に祈る。
 一生涯めくら滅法に走りつづけて、行きつくゴールというものがなく、どこかしらでバッタリ倒れてそれがようやく終わりである。永遠に失われざる青春、七十になっても現実の奇蹟を追うてさまようなどとは、毒々しくて厭だとも考える。甘くなさそうでいて、何より甘く、深刻そうでいて何より浅薄でもあるわけだ。

p.61 l.14〜。

 だが、メリメやスタンダールばかりではない。人は誰しも自分一人のしかし実在しない恋人を持っているのだ。この人間の精神の悲しむべき非現実性と、現実の家庭生活や恋愛生活との開きを、なんとかして合理化しようとする人があるけれども、これは理論ではどうにもならないことである。どちらか一方をとるよりほかには仕方がなかろう。

「三 宮本武蔵」から。p.63 l.7〜。

 突然宮本武蔵の剣法が現われてきたりすると驚いて腹を立てる人があるかもしれないけれども、別段に鬼面人を驚かそうという魂胆があるわけでもなく、まして読者を茶化す思いは寸毫といえどもないのである。

p.63 l.13〜。

 戦争このかた「皮を切らして肉を切り、肉を切らして骨を切る」という古来の言葉が愛用されて、我々の自信を強めさせてくれている。先日読んだ講釈本によると柳生流の極意だということであるが、真偽のほどは請け合わない。とにかく何流かの極意の言には相違ないので、僕がこれから述べようとする宮本武蔵の試合ぶりは、常に正しくこの極意のとおりにほかならなかった。
 しかしながら「肉を切らして骨を切る」という剣術の極意は、必ずしも武士道とは合致しないところがある。具えなき敵に切りかかっては卑怯だとか、一々名乗りをあげて戦争するとか、いわゆる武士道形式に従うと剣術の極意に合わない。「剣術」と「武士道」とは別の物だと言ってしまえば、まさしくそのとおりであって、武士道は必ずしも剣道ではない。主に対する臣というものの機構から生まれてきた倫理的な生き方全般に関するもので、一剣術の極意をもって律することはできがらいゆえんであるが、逆に武士道から剣を律しようとして「剣は身を守るものだ」と言ったり、村正の剣は人を切る邪剣で正宗の剣は身を守る正剣だ、などと言うことになると、両者の食い違うところが非常にハッキリしてくるのである。
 剣術には「身を守る」という術や方法はないそうだ。敵の切りかかる剣を受け止めて勝つという方法はないというのだ。大人と子供ぐらい腕が違えばとにかく,武芸者同士の立ち合いならちょっとでも先によけい切った方が勝つ。肉を切らして骨を切るというのが、まさしく剣術の極意であって、あえて流派に限らぬ普遍的な真理だという話である。

p.65 l.1〜。

 だが、剣術本来の面目たる「是が非でも相手を倒す」という精神ははなはな殺伐で、これをただちに処世の信条におかれては安寧をみだす憂いがあるし、平和の時の心構えとしてはふさわしくないところもある。そんなわけで、剣術本来の第一精神があらぬ方へ韜晦された風があり、武芸者たちも老年に及んで鋭気が衰えでば家庭的な韜晦もしたくなろうし、剣の用法もしだいに形式主義に走って、本来殺伐、あくまで必殺の剣が、何か悟道的な円熟を目的とするかのような変化を見せたのであろうと思われる。けだし剣本来の必殺第一主義ではその荒々しさ激しさに武芸者自身が精神的に抵抗しがたくなって、いい加減で妥協したくなるのが当然だ。

p.65 l.8〜。

 相手をやらなければこちらが命をなくしてしまう。まさに生死の最後の場だから、いつでも死ねるという肚がすわっていればこれに越したことはないが、こんな覚悟というものは口で言いやすいけれども達人でなければできるものではない。
 僕は先日勝海舟の伝記を読んだ。ところが海舟の親父の勝夢酔という先生が、奇々怪々な先生で、不良少年、不良青年、不良老年と生涯不良で一貫した御家人くずれの武芸者であった。もっとも夢酔は武芸者などともっともらしいことを言わず剣術使いと自称しているが、老年に及んで自分の一生をふりかえり、あんまり下らない生活だから子々孫々のいましめのために自分の自叙伝を書く気になって「夢酔独言」という珍重すべき一書を遺した。
 遊蕩三昧に一生を送った剣術使いだから夢酔先生はほとんど文章を知らぬ。どうして文字を覚えたかと言うと、二十一か二のとき、あんまり無頼な生活なので座敷牢へ閉じこめられてしまった。その晩さっそく格子を一本はずしてしまって、いつでも逃げだせるようになったが、その時ふと考えた。俺もいろいろ悪いことをして座敷牢に入れられるようになったのだから、まアしばらく這入っていてみようという気になったのだ。そうして二年ほど這入っていた。そのとき文字を覚えたのである。
 それだけしか習わない文章だから実用以外の文章の飾りは何も知らぬ。文字どおり言文一致の自叙伝で、俺のようなバカなことをしちゃ駄目だぜ、としゃべるように書いてある。
 僕は「勝海舟伝」の中に引用されている「夢酔独言」を呼んだだけで、原本を見たことはないのである。なんとかして見たいと思って、友達の幕末に通じた人には全部手紙で照会したが一人として「夢酔独言」を読んだという人がいなかった。だが「勝海舟伝」に引用されている一部分を読んだだけでも、これはまことに驚くべき文献のひとつである。
 この自叙伝の行間に不思議な妖気を放ちながら休みなく流れているものが一つあり、それは実に「いつでも死ねる」という確乎不抜、大胆不敵な魂なのだった。読者のために、今、多少でも引用してお目にかけたいと思ったのだが、あいにく「勝海舟伝」がどこへ紛失したか見当たらないので残念であるが、実際一ページも引用すればただちに納得していただける不思議な名文なのである。ただ淡々と自分の一生の無頼三昧の生活を書き綴ったものだ。
 子供の海舟にも悪党の血、いや、いつでも死ねる、というようなものがかなり伝わって流れてはいる。だが、親父の悠々たる不良ぶりというものは、なにか芸術的な安定感をそなえた奇怪なみごとさを構成しているものである。いつでも死ねる、と一口に言ってしまえば簡単だけれども、そんな覚悟というものは一世紀に何人という少数の人が持ち得るだけのきわめてまれな現実である。
 常に白刃の下に身を置くことを心掛けて修業に励む武芸者などは、この心掛けが当然あるべきようでいて、実は決してそうではない。結局、直接白刃などとは関係がなく、人格のもっと深く大きなスケールの上で構成されてくるもので、一王国の主たるべき性格であり、改新的な大事業家たるべき性格であって、この希有な大覚悟の上に自若と安定したまま不良無頼な一生を終わったという勝夢酔が例外的な不思議な先生だと言わねばわなぬ勝海舟という作品を創るだけの偉さを持った親父であった
 夢酔の覚悟に比べれば、宮本武蔵は平凡であり、ボンクラだ。武蔵六十歳の筆になるという「五輪書」と「夢酔独言」の気品の高低を見ればわかる。「五輪書」には道学者的な高さがあり、「夢酔独言」には戯作者的な低さがあるが、文章にそなわる個性の精神的深さというものは比すべくもない。「夢酔独言」には最上の芸術家の筆をもってようやく達しうる精神の高さ個性の深さがあるのである。

p.67 l.14〜。

 しかしながら、晩年の悟りすました武蔵はとにかくとして、青年客気の武蔵はこれまた希有な達人であったということについて、僕はしばらく話をしてみたいのである。
 晩年宮本武蔵が細川家にいたとき、殿様が武蔵に向かって、うちの家来の中でお前のメガネにかなうような剣術の極意に達した者がいるだろうか、と訊ねた。すると武蔵が一人だけござりますと言って、都甲太兵衛という人物を推奨した。ところが都甲太兵衛という人物は剣術がカラ下手なので名高い男で、またほかに取り柄というものも見当たらぬ平凡な人物である。殿様もはなはだ呆れてしまって、どこにあの男の偉さがあるのかと訊いてみると、本人に日ごろの心構えをお訊ねになればわかりましょう、という武蔵の答え。そこで都甲太兵衛をよびよせて、日ごろの心構えというものを訊ねてみた。
 太兵衛はしばらく沈黙していたが、さて答えるには、自分は宮本先生のオメガネにかなうような偉さがあるとは思わないが、日ごろの心構えというのことについてのお訊ねならば、なるほど、笑止な心構えだけれども、そういうものが一つだけあります。元来自分は非常に剣術がヘタで、また、生来臆病者で、いつ白刃の下をくぐるようなことが起こって命を落とすかと思うと夜も心配で眠れなかった。とはいえ、剣の才能がなくて、剣の力で安心立命をはかるというわけにも行かないので、結局、いつ殺されてもいいという覚悟ができれば救われるのだということを確信するに至った。そこで夜ねむるとき顔の上へ白刃をぶらさげたりして白刃を怖れなくなるようなさまざまなくふうを凝らしたりした。そのおかげで、近ごろはどうやら、いつ殺されてもいいという覚悟だけはできて、夜も安眠できるようになったが、こでが自分のたった一つの心構えとでも申すものでありましょうか、と言ったのだ。すると傍にひかえていた武蔵が言葉を添えて、これが武道の極意でございます、と言ったという話である。

p.69 l.10〜。

 宮本武蔵に「十智」という書があって、その中に「変」ということを説いているそうだ。つまり、知恵のある者は一からニへ変化する。ところが知恵のないものは、一は常に一だと思い思い込んででいるから、智者が一からニへ変化すると嘘だと言い、約束が違ったと言って怒る。しかしながら場に応じて身を変え心を変えることは兵法のたいせつな極意なのだと述べているそうだ。
 宮本武蔵は剣に生き、剣に死んだ男であった。どうしたら人に勝てるか自分よりも修業をつみ、術においてまさっているかもしれぬ相手に、どうしたら勝てるか、そのことばかり考えていた。
 武蔵は都甲太兵衛の「いつ殺されてもいい」という覚悟を、これが剣法の極意でございますと、言っているけれども、しかし、武蔵自身の歩いた道は決してそれではなかったのである。彼はもっと凡夫の弱点のみを多く持った度しがたいほど鋭角の多い男であった。彼には、いつ死んでもいい、という覚悟がどうしても据わらなかったので、そこに彼の独自な剣法が発案された。つまり彼の剣法は凡人凡夫の剣法だ。覚悟定まらざる凡夫が的に勝つにはどうすべきか、それが彼の剣法だった。

p.70 l.15〜。

 武蔵の考えによれば、試合の場にいながら用意を忘れているのがいけないのだというのである。何でも構わぬ。敵の隙につけこむのが剣術なのだ。敵に勝つのが剣術だ。勝つためには利用のできるものは何でも利用する。刀だけが武器ではない。心理でも油断でも、またどんな弱点でも、利用し得るものをみんな利用して勝つというのが武蔵の編みだした剣術だった。

p.74 l.6〜。

 剣法には固定した型というものはない。というのが武蔵の考えであった。相手に応じて常に変化するというのが武蔵の考えで、だから武蔵は型にとらわれた柳生流を非難していた。柳生流には大小六十二種の太刀数があって、変に応じたあらゆる太刀をあらかじめ学ばせようというのだが、武蔵はこれを否定して、変化は無限だからいくら型を覚えても駄目で、あらゆる変化に応じ得る根幹だけがだいじだと言って、その形式主義を非難したのである

p.76 l.3〜。

 武蔵は三時間送れて船島へ着いた。遠浅だったので武蔵は水中に降りた。小次郎は待ち疲れて大いにいらだっており、武蔵の降りるのを見ると憤然波打ち際まで走ってきた。
 「時間に遅れるとは何事だ。気おくれがしたのか」
 小次郎は怒鳴ったが、武蔵は答えない。黙って小次郎の顔を見ている。武蔵の予期のとおり小次郎ますます怒った。大剣を抜き払うと同時に鞘を海中に投げすてて構えた。
 「小次郎の負けだ」と武蔵は静かに言った。
 「なぜ、俺の負けだ」
 「勝つつもりなら、鞘を水中に捨てるはずはなかろう」
 この問答は武蔵一生の圧巻だと僕は思う。武蔵はとにかく一個の天才だと僕は思わずにいられない。ただ彼は努力型の天才だ。堂々と独自の剣法を築いてきたが、それはまさに彼の個性があって成り立つ剣法であった。彼の剣法は常に敵に応じる「変」の剣法であるが、この最後の場へ来て、鞘を海中に投げすてた敵の行為を反射的に利用し得たのは、彼の冷静とか修練というものもあるかもしれぬが、元来がそういう男であったのだ、と僕は思う。特に冷静というのではなく、ドタン場においても藁をもつかむ男で,その個性を生かして大成したのが彼の剣法であったのだ。溺れる時にも藁をつかんで生きようとする、トコトンまで足場足場にあるものを手当たりしだい利用して最後の活へこぎつけようとする、これが彼の本来の個性であると同時に、彼の剣法なのである。個性を生かし、個性の上へ築き上げたという点で、彼の剣法はいわば彼の芸術品と同じようなものだ。彼は絵や彫刻が巧みで、絵の道も同じだと言っているが、しごく当然だと僕は思うのである。
 僕は船島のこの問答を、武蔵という男の作った非常にきわどいがしかしそれゆえみごとな芸術品だと思っている。

p.78 l.1〜。

 武蔵は都甲太兵衛の「いつ殺されてもいい」覚悟を剣法の極意だと言っているが,彼自身の剣法はそういう悟道の上へ築かれたものではなかった。晩年の著「五輪書」がつまらないのも、このギャップがあるからで、彼の剣法は悟道の上にはなく、個性の上にあるのに、悟道的な統一で剣法を論じているからである。
 武蔵の剣法というものは、敵の気おくれを利用するばかりでなく、自分自身の気おくれまで利用して、逆にこれを武器に用いる剣法である。溺れる者藁をもつかむ、というさもしい弱点を逆に武器にまで高めて、これを利用して勝つ剣法なのだ。
 これがほんとうの剣術だと僕は思う。なぜなら、負ければ自分が死ぬからだ。どうしても勝たなければならぬ。妥協の余地がないのである。こういう最後の場では、勝って生きる者に全部のものがあるのだから、是が非でも勝つことだ。どうしても勝たねばならぬ。
 ところがはなはだ気の毒なことには、武蔵の剣法は当時の社会には容れられなかった。形式主義の柳生流が全盛で、武蔵のような勝負第一主義は激しすぎて通用の余地がなかったのだ。
 武蔵の剣法もまた,いわば一つの淪落の世界だと僕は思う。世に容れられなかったから淪落の世界だと言うのではないが、しかし、世に容れられなかった理由の一つは、たしかにその淪落の性格のためだとは言えるであろう。

p.79 l.03〜。

 武蔵は試合に先立って常に細心の用意をしている。時間をおくらせて、じらしたり、逆をついて先廻りしたり、試合に当たって心理的なイニシアチヴをとることを常に忘れることがなく、自分の木刀を自分でけずるというような堅実な心構えも失わないし、クサリ鎌に応じては二刀をふりかぶるという特殊な用意も怠らない。試合に当たって常に綿密な計算を立てていながら、しかし、いよいよ試合にのぞむと、さらに計算をはみ出したところに最後の活をもとめているのだ。このような即興性というものはいかほど深い意味があってもオルソドックスには成り得ぬもので、一つごとに一つの奇蹟を賭けている。自分の理念を離れた場所へ自分を突き放して、そこで賭け事をしているのである。その賭け事には万全の用意があり、また、自信があったのかもしれぬが、しかし、賭け事であることには変わりがない。
 「小次郎の負けだ」
 めざとくも利用して武蔵はそう言ったが、しかし、そこに余裕などがあるものか。武蔵はただ必死であり、必死の凝った一念が、溺れる者の激しさで藁の奇蹟を追うているだけの話だ。余裕というもののいっさいない無意識の中の白熱の術策だから、凄まじいほど美しいと僕は言う。万全の計算をつくり、一生の修業を賭けた上で、なお、計算や修業をはみだしてしまう必死の術策だから美しい。彼はどうしても死にたくなかった。是が非でも生きたかった。その執着の一念が悪相の限りを凝らして彼の剣に凝っており、縋り得るあらゆる物に縋りついて血路をひらこうとしているだけだ。最後の場にのぞんだ時に、意識せずしてこの術策を弄してしまう武蔵であった。救われがたい未練千万な性格を、逆に武器に駆り立てて利用している武蔵であった。

p.80 l.3〜。

 しかしながら、武蔵には、いわば悪党の凄味というものがないのである。松平出雲の面前で相手の油断を認めると挨拶前に打ち倒してしまったりして、卑怯と言えば卑怯だが、しかし悪党の凄味ではなく、むしろ、ボンクラな田舎者の一念凝らした馬鹿正直というようなものだ。彼はとにかく馬鹿正直に一念凝らして勝つことばかり狙っていた。所詮は一個の剣術使いで、一王国の主たるべき悪党ぶりには縁がなかった。
 いつでも死ねる、という偉丈夫の覚悟が彼にはなかったのだ。その覚悟がなかったために編みだすことのできた独特無比の剣法ではあったけれども、それゆえまた、剣を棄てて他に道をひらくだけの芸がなく、生活の振幅がなかった。都甲太兵衛は家老になって、一夜に庭をつくる放れ技を演じているが、武蔵は二十八で試合をやめて花々しい青春の幕をとじた後でも、一生碌々たる剣術使いで、自分の編みだした剣法が世に容れられぬことを憤るだけのことにすぎない。六十の時「五輪書」を書いたけれども、個性の上に不抜な術を築きあげた天才剣の光輝はすでになく、率直に自己の剣を説くだけの自信と力がなく、いたずらに極意風のもったいぶった言辞を弄して、地水火風空の物々しい五巻に分けたり、深遠を衒って俗に堕し、ボンクラの本性を暴露しているにすぎないのである。

p.81 l.1〜。

 剣術は所詮「青春」のものだ。特に武蔵の剣術は青春そのものの剣術であった。一か八かの絶対面で賭博している淪落の術であり、奇蹟の術であったのだ。武蔵自身がそのことに気づかず、オルソドックスを信じていたのが間違いのもとで、元来世に容れられざる性格をもっていたのである。
 武蔵は二十八の年に試合をやめた。その時まで試合うこと六十余度、一度も負けたことがなかったのだが、この激しさを一生涯持続することができたら、まさに驚嘆すべき超人と言わざるを得ぬ。けれども、それを要求するのはあまりに苛酷なことであり、血気にはやり名誉に燃える彼とはいえ、その一々の試合の薄氷を踏むがごとく、細心周到万全を期したが上にも全霊をあげた必死の一念を見れば、僕もまた思うて慄然たらざるを得ず、同情の涙を禁じ得ないものがある。しかしながら、どうせここまでやりかけたなら、一生涯やり通してくれればよかったに。そのうちに誰かに負けて、殺されてしまっても仕方がない。そうすれば彼も救われたし、それ以外に救われようのない武蔵であったように僕は思う。鋭気衰えて「五輪書」などは下の下である。

「殺されてしまっても仕方がない」というのには,同調し難いものがある。「いつ死んでしまうか分からない」という覚悟を持った上で,それでも,勝ち続け、そして,「悟道」まがいではない「五輪書」を残す,べきであったのではないだろうか。。

p.81 l.14〜。

 まったくもって、剣術というものを、一番剣術本来の面目の上に確立していながら、あまりにも剣術の本来の精神を生かしすぎるがゆえにかえって世に容れられず、またみずからはその真相を悟り得ずに不満の一生を終わった武蔵という人は、悲劇的な人でもあるし、戯画的な滑稽さを感じさせる人でもある。彼は世の大人たちに負けてしまった。柳生流の大人たちに負け、もっとつまらぬ武芸のあらゆる大人たちに負けてしまった。彼自身が大人になろうとしなければ、負けることはなかったのだ。

p.83 l.13〜。

 勝つのが全然嬉しくもなくおもしろくもなく何の張り合いにもならなくなってしまったとか、生きることにもウンザリしてしまったとか、何か、こう魔にみいられたような空虚を知って試合をやめてしまったというわけでもない。それは「五輪書」という平凡な本を読んでみればわかることだ。ただ、だらだらと生きのびて「五輪書」を書き、その本のおかげをもって今日もなおその盛名を伝えているというわけだが、しかし、このような盛名が果たして何物であろうか。

「四 再びわが青春」から。p.84 l.2〜。

 淪落の青春だとと言って、まるで僕の青春という意味はヤケとかデカダンという意味のように思われるかしれないけれども、そういうものを指しているわけでは毛頭ない。
 そうかと言って、僕自身の生活に何かハッキリした青春の自覚とか讃歌とかいうものがあるわけでもないことは先刻白状に及んだとおりで、僕なんかは、一生ただ暗夜をさまよっているようなものだ。けれども、こういうさまよいの中にも、僕は僕なりの一条の燈の目当てぐらいはあるもので、茫漠たる中にも、何か手探りして探すものはあるのである。
 非常に当然な話だけれども、信念というようなものがなくて生きているのは、あんまり意味のないことである。けれども、信念というものは、そう軽々に持ちうるものではなく、お前の信念は何だ、などと言われると、僕などまっさきに返答ができなくなってしまうのである。それに、信念などというものがなくとも人は生きていることに不自由はしないし、結構幸福だ、ということになってくると、信念などというものは単に愚か者のオモチャであるかもしれないのだ。
 実際、信念というものは、死することによって初めて生きることができるような、常に死と結ぶ直線の上を貫いていて、これもまたひとつの淪落であり、青春そのものにほかならないと言えるであろう。
 けれども、盲目的な信念というものは、それがいかほど激しく生と死を一貫して貫いても、さまで立派だと言えないし、かえって、そのヒステリイ的な過剰な情熱に濁りを感じ、不快を覚えるものである

p.85 l.3〜。

 僕は天草四郎という日本における空前の少年選手が大好きで、この少年の大きな野心とそのみごとな構成について、もう三年越し小説に書こうと努めている。そのために、切支丹の文献をかなり読まねばならなかったけれども、熱狂的な信仰をもって次から次へ堂々と死んで行った日本のおびただしい殉教者たちが、しかし、僕は時に無益なヒステリイ敵な饒舌のみを感じ、不快を思えることがあるのであった
 切支丹は自殺をしてはいけないという戒めがあって、当時こういう戒めははなはだ厳格に実行され、ドン・アゴスチノ小西行長は自害せず刑場に引き立てられて武士らしからぬ死を選んだ。また、切支丹は武器をとって抵抗しては殉教と認められない定めがあって、そのために島原の乱の三万七千の戦死者は殉教者と認められていないのだが、この掟によって、切支丹らしい捕われ方をするために、捕吏に取り囲まれたとき、わざわざ腰の刀を鞘ぐるみ抜きとって遠方へ投げすてて縄を受けたなどという御念の入った武士もあったし、そうかと思うと、主のために殉教し得る光栄を与えてもらえたと言って、首斬りの役人に感謝の辞と祈りをささげて死んだバテレンがあったりした。当時は殉教の心得に関する印刷物が配布<1-- -->されていて、信徒たちはみんな切支丹の死に方というものを勉強していたらしく、全くもって当時教会の指導者たちというものは、あたかも刑死を奨励するかのような驚くべきヒステリイにおちいっていたのである。無数の彼らの流血は凄惨眼を掩わしめるものがあるけれども、人々を単に死に急がせるかのようなヒステリイ的性格には、時に大いなる怒りを感じ、その愚かさに歯がみを覚えずにいられぬ時もあったのだ。
 いのちにだって取り引きというものがあるはずだ。いのちの代償が計算はずれの安値では信念に死んでも馬鹿な話で、人々は十銭の茄子を値切るのにヒステリイは起こさないのに、いのちの取り引きに限ってヒステリイを起こしてわけもなく破産を急ぐというのはけっして立派なことではない。

たしかに,巧妙に仕組まれたプロパガンダや「教育」「信仰」とは恐ろしいもので,それを狂信・陶酔するから,万歳等と叫んで「肉弾攻撃」,「特攻」という名の自殺,自爆テロなどが行なわれる。第二次世界大戦での日本軍による「特別攻撃」では,覚醒剤 (塩酸メタンフェタミン :「ヒロポン」は商品名) に茶の粉末を混ぜたものを出撃前に「特攻錠」として支給したというし、"assassin" (暗殺者) もアラビア語の「大麻製麻酔薬飲用者」(「ハシシを吸う者」) からラテン語へ転じたのが語源。

p.87 l.9〜。

 数年前、菱山修三が外国へ出帆する一週間ぐらい前に階段から落ちて喀血し、生存を絶望とされたことがあった。僕も、もう菱山は死ぬものとばかり思っていたのに、一年半ぐらいで恢復してしまった。菱山の話によると、肺病というものは、病気を治すことを人生の目的とする覚悟ができさえすれば必ず治るものだ、と言うのであった。他の人生の目的を、いっさい断念して、病気を治すことだけを人生の目的とするのである。そうして、絶対安静を守るのだそうだ。
 その後、僕が小田原の松林の中に住むようになったら、近所合壁みんな肺病患者で、悲しいかな、彼らの大部分の人たちは他のいっさいを放擲して治病をもって人生の目的とする覚悟がなく、なにかしら普通人の生活がぬけきれなくて中途半端な闘病生活をしていることがすぐわかった。菱山よりもはるかに軽症と思われた人たちが、読書に耽ったり散歩に出歩いたりしているうちにたちまちバタバタ死んで行った。治病をもって人生の目的とするというのも相当の大事業で、肺病を治すには、かなり高度の教養を必要とするということをさとらざるを得なかった。

一時的にせよ,「他を一切断念して,治病だけを人生の目的とする」,か。それが出来ればね…。非常に難しいことだ,それは。

p.88 l.4〜。

 死ぬることは簡単だが、生きることは難事業である。僕のような空虚な生活を送り、一時間一時間に実のない生活を送っていても、この感慨は痛烈に身にさしせまって感じられる。こんなに空虚な生活をしていながら、それでいて生きているのが精いっぱいで、祈りもしたい、酔いもしたい、忘れもしたい、叫びもしたい、走りもしたい。僕には余裕がないのである。生きることが、ただ、全部なのだ。
 そういう僕にとっては、青春ということは、要するに、生きることのシノニイムで、年齢もなければ、また、終わりというものもなさそうである。
 僕が小説を書くのも、また、何か自分以上の奇蹟を行なわずにはいられなくなるためで、全くそれ以外にはたいした動機がないのである。人に笑われるかもしれないけれども、実際そのとおりなのだから仕方がない。いわば、僕の小説それ自身、僕の淪落のシムボルで、僕は自分の現実をそのまま奇蹟に合一せしめるということを、唯一の情熱とする以外にほかの生き方をしらなくなってしまったのだ。
 これははなはだ自信たっぷりのようでいて、実はこれぐらい自信の欠けた行き方もなかろう。常に奇蹟を追いもとめるということは、気がつくたびに落胆するということの裏と表で、自分の実際の力量をハッキリ知るということぐらい悲しむべきことはないのだ。
 だがしかし、持って生まれた力量というものは、いまさら悔いても及ぶはずのものではないから、僕に許された道というのは、とにかく前進するだけだ。

p.89 l.16〜。

 こういう僕にとっては、所詮一生が毒々しい青春であるのはやむを得ぬ。僕はそれにヒケ目を感じることなきにしもあらずという自信のないありさまを白状せずにもいられないが、時には誇りを持つこともあるのだ。そうして「淪落に殉ず」というような一行を墓に刻んで、サヨナラだという魂胆を持っている。
 要するに、生きることが全部だというよりほかに仕方がない

_/_/_/_/_/

2005-10-05(水)

晴れ。

散歩。

Kujaku So 孔雀草。

Asagao 朝顔@実家。

晩ごはん。ステーキ。

坂口安吾「堕落論」(角川文庫版 ISBN:4-04-110003-8) 所収,「デカダン文学論」(1946.10『新潮』発表) より。p.115 l.1〜。

 極意だの免許皆伝などというのは茶とか活花とか忍術とか剣術の話かと思っていたら、関孝和の算術などで斎戒沐浴して血判を捺し自分の子供と二人の弟子以外には伝えないなどとやっている。もっとも西洋でも昔は最高の数理を秘伝視して門外不出の例はあるそうだが、日本は特別で、なんでも極意書ときて次に斎戒沐浴、いわく言いがたしとくる。私はタバコが配給になって生まれて始めてキザミを吸ったが、昔の人間だって三服四服はつづけざまに吸ったはずで、さすればガン首の大きいパイプを発明するのが当然のはずであるのに、そういう便利な、実質的な進歩発明という算段は浮かばずに、タバコは一服吸ってポンと叩くところがよいなどというフザけた通が生まれ育ち、現実に停止して進化が失われ、その停止をもてあそんでフザけた通や極意や奥義書が生まれて、実質的な進歩、ガン首を大きくしろというような当然な欲求は下品なもの、通ならざる俗なものと考えられてしまうのである。キセルの羅宇は仏印ラオス産の竹、羅宇竹から来た名であるが、キセルは羅宇竹に限るなどと称してますます実質を離れて枝葉に走る。フォークをひっくりかえして無理にむつかしく御飯をのせて変てこな手つきで口へ運んで、それが礼儀上品なるものと考えられて疑われもしない奇妙奇天烈な日本であった。実質的な便利な欲求を下品と見る考えは随所にさまざまな形でひそんでいるのである

p.117 l.2〜。

 日本的家庭感情の奇妙な歪みは、浮世においては人情義理という怪物となり、離俗の世界においてはサビだの幽玄だのモノノアワレなどという神秘の扉の奥に隠れていわく言いがたきものとなる。ポンと両手を打ち鳴らして、右が鳴ったか左がなったかなどと言って、人生の大真理がそんな所に転がっていると思い、大将軍大政治家大富豪ともならん者はそういう悟りをひらかなければならないなどと、こういうフザけたことが日本文化の第一線に堂々通用しているのである。西洋流の学問をして実証精神の型がわかるとこういう一見フザけたことはすぐ気がつくが、つけ焼刃で、根柢的に日本の幽霊を退治したわけではなく、むしろ年とともに反動的な大幽霊とみずから化して、サビだの幽玄だのますます執念を深めてしまう。学問の型を形のごとくに勉強するが、自分自身というものについて真実突きとめて生きなければならないという唯一のものが欠けているのだ

p.120 l.4〜。

 [島崎]藤村も横光利一も糞マジメでおよそ誠実に生き、かりそめにも遊んでいないような生活態度に見受けられる。世間的、また、態度的には遊んでいないが、文学的には全く遊んでいるのである。
 文学的に遊んでいる、とは、彼らにとって倫理はみずから行なうことではなく、倫理的にもてあそばれているにすぎないということで、要するに彼らはある型によって思考しており、肉体的な論理によって思考してはいないことを意味している。彼らの論理の主点はそれみずからの合理性ということで、理論自体が自己破壊を行なうことも、盲目的な自己展開を行なうこともあり得ないのである。
 かかる論理の定型性というものは、一般世間の道徳とか正しい生活などと称せられるものの基本をなす贋物の生命力であって、すべて世の謹厳なる道徳家だの健全なる思想家などというものは、例外なしに贋物と信じてさしつかえはないほんとうの倫理は健全ではないものだそこには必ず倫理自体の自己破壊が行なわれており、現実に対する反逆が精神の基調をなしているからである

p.123 l.15〜。

 私は世のいわゆる健全なる美徳、清貧だの倹約の精神だの、困苦欠乏に耐える美徳だの、謙譲の美徳などというものはみんな嫌いで、美徳ではなく、悪徳だと思っている。
 困苦欠乏に耐える日本の兵隊が困苦欠乏に耐え得ぬアメリカの兵隊に負けたのは当然で、欠乏の美徳という日本精神自体が敗北したのである。人間は足があるからエレベーターでたった五階六階まで登るなどとは不健全であり堕落だという。機械によって肉体労働の美徳を忘れるのは堕落だという。こういうフザけた退化精神が日本の今日のみごとな敗北をまねいたのである。こういう馬鹿げた精神が美徳だなどと疑られもしなかった日本は、どうしても負け破れ破滅する必要があったのである
 しかり、働くことは常に美徳だできるだけ楽に便利に能率的に働くことが必要なだけだ。ガン首の大きなパイプを発明するだけの実質的な便利な進化を考え得ず、一服吸ってポンと叩く心境のサビだの美だのと下らぬことに奥義書を書いていた日本の精神はどうしても破滅する必要があったのだ。

p.124 l.9〜。

 美しいもの、楽しいことを愛すのは人間の自然であり、ゼイタクや豪奢を愛し、成金は俗悪な大邸宅をつくって大いに成金趣味を発揮するが、それが万人の本性であって、毫も軽蔑すべきところはない。そして人間は、美しいもの、楽しいこと、ゼイタクを愛するように、正しいことも愛するのである。人間が正しいもの、正義を愛す、ということは、同時にそれが美しいもの楽しいものゼイタクを愛し、男が美女を愛し、女が美男を愛することなどと並立して存するゆえに意味があるので、悪いことをも欲する心と並び存するゆえに意味があるので、人間の倫理の根源はここにあるのだ、と私は思う。
 人間が好むものを欲しもとめ、男が好きな女を口説くことは自然であり、当然ではないか。それに対してイエスとノーのハッキリした自覚があればそれで良い。この自覚が確立せられず、自分の好悪、イエスとノーもハッキリ言えないような子供の育て方の不健全さというものは言語道断だ。

p.125 l.2〜。

 処女の純潔などというけれども、いっこうに実用的なものではないので、失敗は成功の母と言い、失敗は進歩の階段であるから、処女を失うぐらい必ずしも咎むべきではなかろう。純潔を失うなどと言って、ひどい堕落のように思いこませるから罪悪感によって本格的に堕落を辿るようになるので、これを進歩の段階と見、より良きものを求めるための尊い捨て石であるような考え方生き方を与える方がほんとうだ。より良きものへの希求が人間に高さと品位を与えるのだ。単なる処女のごとき何物でもないではないか。もっとも無理にすて去る必要はない。要は、魂の純潔が必要なだけである。
 失敗せざる魂、苦悩せざる魂、そしてより良きものを求めざる魂に真実の魅力はすくない。日本の家庭というものは、魂を昏睡させる不健康な寝床で、純潔と不変という意外千万な大看板をかかげて、男と女が下落し得る最低位まで下落してそれが他人でない証拠なのだと思っている。家庭が娼婦の世界によって簡単に破壊せられるのは当然で、娼婦の世界の健康さと、家庭の不健康さについて、人間性に根ざした究明がまた文学の変わらざる問題の一つが常にこのことに向かって行なわれる必要があったはずだと私は思う。娼婦の世界に単純明快な真理がある。男と女の真実の生活があるのである。だましあい、より美しくより愛らしく見せようとし、実質的に自分の魅力のなかで相手を生活させようとする。
 別な女に、別な男に、いつ愛情がうつるかもしれぬということの中には人間自体の発育があり、その関係は元来健康なはずなのである。しかしなるべく永遠であろうとすることも同じように健康だ。そして男女の価値の上に、肉体から精神へ、また、精神から肉体へ価値の変化や進化が起こる。価値の発見も行なわれる。そして生活自体が発見されているのである。
 問題は単に「家庭」ではなしに、人間の自覚で、日本の家庭はその本質において人間が欠けており、生殖生活の巣を営む本能が基礎になっているだけだ。そして日本の生活感情の主要な多くは、この家庭生活の陰鬱さを正義化するために無数のタブーをつくっており、それがまた思惟や思想の根元となって、サビだの幽玄だの人間よりも風景を愛し、庭や草花を愛させる。けれども、そういう思想が贋物にすぎないことは彼ら自身が常に風景を裏切っており、日本三景などというが、私は天の橋立というところへ行ったが、遊覧客の主要な目的はミヤジマの遊びであったし、伊勢神宮参拝の講中が狙っているのも遊び場で、伊勢の遊び場は日本において最も淫靡な遊び場である。もっとも日本の家庭が下等愚劣なものであると同様に、これらの遊び場にもただ女の下等な肉体がころがっているにすぎないのである。

p.127 l.15〜。

 もとより人間は思いどおりに生活できるものではない。愛する人には愛されず、欲する物はわが手に入らず、手の中の玉は逃げ出し、希望の多くは仇夢で、人間の現実は努力するところに人間の生活があるのであり、夢は常にくずれるけれども、諦めや慟哭は、くずれ行く夢自体の事実の上にあり得るので、思惟として独立に存するものではない。人間はまず何よりも生活しなければならないもので、生活自体が考えるとき、始めて思想に肉体が宿る。生活自体が考えて、常に新たな発見と、それ自体の展開をもたらしてくれる。この誠実な苦悩と展開が常識的に悪であり堕落であっても、それを意とするには及ばない。

p.128 l.10〜。

 日本文学は風景の美にあこがれる。しかし、人間にとって、人間ほど美しいものがあるはずはなく、人間にとっては人間が全部のものだ。そして、人間の美は肉体の美で、キモノだの装飾品の美ではない。人間の肉体には精神が宿り、本能が宿り、この肉体と精神が織りだす独特の絢は、一般的な解説によって理解し得るものではなく、常に各人各様の発見が行なわれる永遠に独自な世界であるこれを個性といい、そして生活は個性によるものであり、元来独自なものである。一般的な生活はあり得ない。めいめいが各自の独自なそして誠実な生活をもとめることが人生の目的でなくて、他の何物が人生の目的だろうか
 私はただ、私自身として、生きたいだけだ。
 私は風景の中で安息したいとは思わない。また、安息し得ない人間である。私はただ人間を愛す私を愛す私の愛するものを愛す徹頭徹尾、愛すそして、私は私自身を発見しなければならないように、私の愛するものを発見しなければならないので、私は堕ちつづけ、そして、私は書きつづけるであろう。神よ、わが青春を愛する心の死に至るまで衰えざらんことを。

_/_/_/_/_/

2005-10-04(火)

曇り。

「付合い」で,名掛丁〜一番町。

昼ごはん。せいろそば@北前そば「高田屋」

晩ごはん。牡蠣フライ,イサキ刺身。

坂口安吾「堕落論」(角川文庫版 ISBN:4-04-110003-8) 所収,「日本文化私観」(1942.03『現代文学』発表) より。「一 「日本的」ということ」から。p.5 l.1〜。

 僕は日本の古代文化についてほとんど知識を持っていない。ブルノー・タウトが絶讃する桂離宮も見たことがなく、玉泉も大雅堂も竹田も鉄斎も知らないのである。いわんや、秦蔵六だの竹源斎師など名前すら聞いたことがなく、第一、めったに旅行することがないので、祖国のあの町この村も、風俗も、山河も知らないのだ。タウトによれば日本における最も俗悪な都市だという新潟市に僕は生まれ、彼の蔑み嫌うところの上野から銀座への街、ネオン・サインを僕は愛す。茶の湯の方式など全然知らない代わりには、猥りに酔い痴れることのみを知り、孤独の家居にいて、床の間などというものに一顧を与えたこともない。
 けれども、そのような僕の生活が、祖国の光輝ある古代文化の伝統を見失ったという理由で、貧困なものだとは考えていない。(しかし、ほかの理由で、貧困だという内省には悩まされているのだが−)
 タウトはある日、竹田の愛好家というさる日本の富豪の招待を受けた。客は十名余りであった。主人は女中の手をかりず、自分で倉庫と座敷の間を往復し、一幅ずつの掛け物を持参して床の間へ吊し一同に披露して、また、別の掛け物をとりに行く。名画が一同を楽しませることを自分の喜びとしているのである。終わって、座を変え、茶の湯と、礼儀正しい食膳を供したという。こういう生活が「古代文化の伝統を見失わない」ために、内面的に豊富な生活だと言うに至っては、内面的なるものの目安があまり安直でめちゃくちゃな話だけれども、しかし、無論、文化の伝統を見失った僕の方が(そのために)豊富であるはずもない
 いつかコクトオが、日本に来たとき、日本人がどうして和服を着ないのだろうと言って、日本が母国の伝統を忘れ、欧米化に汲々たるありさまを嘆いたのであった。なるほど、フランスという国は不思議な国である。戦争が始まると、まずまっさきに避難したのは、ルーヴル博物館の陳列品と金塊で、パリの保存のために祖国の運命を換えてしまった。彼らは伝統の遺産を受け継いできたが、祖国の伝統を生むべきものが、また彼ら自身にほかならぬことを全然知らないようである
 伝統とは何か? 国民性とは何か? 日本人には必然の性格があって,どうしても和服を発明し、それを着なければならないような決定的な素因があるのだろうか。

p.6 l.15〜。

 講談を読むと、我々の祖先ははなはだ復讐心が強く、乞食となり、草の根を分けて仇を探し廻っている。そのサムライがおわってからまだ七、八十年しか経たないのに、これはもう、我我にとっては夢の中の物語である。今日の日本人は、およそ、あらゆる国民の中で、おそらく最も憎悪心の尠ない国民の中の一つである。僕がまた学生時代の話であるが、アテネ・フランセでロベール先生の歓迎会があり、テーブルには名札が置かれ席が定まっていて、どういうわけだか僕だけ外国人の間にはさまれ、真正面はコット先生であった。[中略] テーブルスピーチが始まった。コット先生が立ち上がった。と、先生の声は沈痛なもので、突然、クレマンソーの追悼演説を始めたのである。クレマンソーは前大戦のフランスの首相、虎とよばれた決闘好きの政治家だが、ちょうどその日の新聞に彼の死去が報ぜられたのであった。コット先生はボルテール流のニヒリストで、無神論者であった。エレジヤの詩を最も愛し、好んでボルテールのエピグラムを学生に教え、また,みずから好んで誦む。だから先生が人の死について思想を通したものでない直接の感傷で語ろうなどとは、僕は夢にも思わなかった。僕は先生の演説が冗談だと思った。今に一度にひっくり返すユーモアが用意されているのだろうと考えたのだ。けれども先生の演説は、沈痛から悲痛になり、もはや冗談ではないことがハッキリわかったのである。あんまり思いもよらぬことだったので、僕は呆気にとられ、思わず、笑いだしてしまった。−その時の先生の眼を僕は生涯忘れることができない。先生は、殺してもなおあきたらぬ血に飢えた憎悪を凝らして、僕を睨んだのだ
 このような眼は日本人にはないのである。僕は一度もこのような眼を日本人に見たことはなかった。その後も特に意識して注意したが、一度も出会ったことがない。つまり、このような憎悪が、日本人にはないのである「三国志」における憎悪、「チャタレイ夫人の恋人」における憎悪、血に飢え、八つ裂きにしてもなおあき足らぬという憎しみは日本人にはほとんどない。昨日の敵は今日の友という甘さが、むしろ日本人に共有の感情だ。およそ仇討ちにふさわしくない自分たちであることを、おそらく多くの日本人が痛感しているに相違ない。長年月にわたって徹底的に憎み通すことすら不可能にちかくせいぜい「食いつきそうな」眼つきぐらいが限界なのである。

p.8 l.8〜。

 伝統とか、国民性とかよばれるものにも、時として、このような欺瞞が隠されている。およそ自分の性情にうらはらな習慣や伝統を、あたかも生来の希願のように背負わなければならないのである。だから、昔日本で行なわれていたことが、昔行なわれていたために、日本本来のものだということは成り立たない。外国において行なわれ,日本には行なわれていなかった習慣が実は日本人にふさわしいこともあり得るのだ。模倣ではなく、発見だ。ゲーテがシエクスピアの作品に暗示を受けて自分の傑作を書きあげたように、個性を尊重する芸術においてすら、模倣から発見への過程は最もしばしば行なわれる。インスピレーションは、多く模倣の精神から出発して、発見によって結実する

p.9 l.7〜。

そうして、今では、木橋が鉄橋に代わり、川幅の狭められたことが、悲しくないばかりか、きわめて当然だと考える。しかし、このような変化は、僕のみではないだろう。多くの日本人は、故郷の古い姿が破壊されて、欧米風な建物が出現するたびに、悲しみよりも、むしろ喜びを感じる。新しい交通機関も必要だし、エレベーターも必要だ伝統の美だの日本本来の姿などというものよりも、より便利な生活が必要なのである京都の寺や奈良の仏像が全滅しても困らないが、電車が動かなくては困るのだ我々にたいせつなのは「生活の必要」だけで、古代文化が全滅しても、生活は亡びず、生活自体が亡びないかぎり、我々の独自性は健康なのであるなぜなら、我々自体の必要と、必要に応じた欲求を失わないからである

p.11 l.2〜。

 しかしながら、タウトが日本を発見し、その伝統の美を発見したことと、我々が日本の伝統を見失いながら、しかも現に日本人であることとの間には、タウトが全然思いもよらぬ距りがあった。すなわち、タウトは日本を発見しなければならなかったが、我々は日本を発見するまでもなく、現に日本人なのだ。我々は古代文化を見失っているかもしれぬが、日本を見失うはずはない。日本精神とは何ぞや、そういうことを我々自身が論じる必要はないのである。説明づけられた精神から日本が生まれるはずもなく、また、日本精神というものが説明づけられるはずもない。日本人の生活が健康でありさえすれば、日本そのものが健康だ。湾曲した短い足にズボンをはき、洋服をきて、チョコチョコ歩き、ダンスを踊り、畳をすてて安物の椅子テーブルにふんぞり返って気取っている。それが欧米人の眼から見て滑稽千万であることと、我々自身がその便利に満足していることの間には、全然つながりがないのである。彼らが我々を憐れみ笑う立場と,我々が生活しつつある立場には根柢的に相違がある。我々の生活が正当な要求にもとづくかぎりは、彼らの憫笑がはなはだ浅薄でしかないのである。湾曲した短い足にズボンをはいてチョコチョコ歩くのが滑稽だから笑うというのは無理がないが、我々はそういう所にこだわりを持たず、もう少し高い所に目的を置いていたとしたら、笑う方が必ずしも利巧なはずはないのではないか。

p.12 l.1〜。

[中略] 祖国の伝統を全然知らず、ネオン・サインとジャズくらいしか知らない奴が、日本文化を語るとは不思議なことかもしれないが、すくなくとも、僕は日本を「発見」する必要だけはなかったのだ

「二 俗悪について(人間は人間を)」から。p.13 l.6〜。

 僕は舞妓の半分以上を見たわけだったが、これぐらい馬鹿らしい存在はめったにない。特別の教養を仕込まれているのかと思っていたら、そんなものは微塵もなく、踊りも中途半端だし、ターキーとオリエの話ぐらいしか知らないのだ。それなら、愛玩用の無邪気な色気があるのかというとコマッチャクレているばかりで、清潔な色気など全くなかった。もともと、愛玩用につくりあげられた存在にきまっているが、子供を条件にして子供の美徳がないのである。羞恥心がなければ、子供はゼロだ。子供にして子供にあらざる以上、大小を兼ねた中間的な色っぽさがあるかというと、それもない。[中略] 舞妓ははなはだ人工的な加工品に見えながら、人工の妙味がないのである。娘にして娘の羞恥がない以上、自然の妙味もないのである。
 僕たちは五、六名の舞妓を伴って東山ダンスホールに行った。[中略] 満員の盛況だったが、このとき僕が驚いたのは、座敷でペチャクチャしゃべっていたり踊っていたりしたのではいっこうに見栄えのしない舞妓たちが、ダンスホールの群集にまじると、郡を圧し、堂々と光彩を放って目立つのである。つまり、舞妓の独特のキモノ、だらりの帯が、洋服の男を圧し、夜会服の踊り子を圧し、西洋人もてんで見栄えがしなくなる。なるほど、伝統あるものには独自の威力があるものだ、と、いささか感服したのであった
 同じことは、相撲を見るたびに、いつも感じた。[中略] 土俵の上の力士たちは国技館を圧倒している。数万の見物人も、国技館の大建築も、土俵の上の力士たちに比べれば、あまりに小さく貧弱である。
 これを野球に比べてみると、二つの相違がハッキリする。なんというグランドの広さであろう。九人の選手がグランドの広さに圧倒され、追いまくられ、数万の観衆に比べて気の毒なほど無力に見える。[中略] いつかベーブ・ルースの一行を見た時には、さすがに違った感じであった。板についたスタンド・プレーは場を圧し、グランドの広さが目立たないのである。グランドを圧倒しきれなくとも、グランドと対等ではあった。
 別に身体のせいではない。力士といえども大男ばかりではないのだ。また、必ずしも、技術のせいでもないだろう。いわば、伝統の貫禄だ。それあるがために、土俵を圧し、国技館の大建築を圧し、数万の観衆を圧している。しかしながら、伝統の貫禄だけでは、永遠の生命を維持することはできないのだ。舞妓のキモノがダンスホールを圧倒し、力士の儀礼が国技館を圧倒しても、伝統の貫禄だけで、舞妓や力士が永遠の生命を維持するわけにはゆかない。貫禄を維持するだけの実質がなければ、やがて亡びるほかに仕方がない問題は、伝統や貫禄ではなく、実質だ

p.22 l.15〜。

 日本の庭園、林泉は必ずしも自然の模倣ではないだろう。南画などに表現された孤独な思想や精神を林泉の上に表現しようとしたものらしい。茶室の建築だとか(寺院建築でも同じことだが)林泉というものは、いわば思想の表現で自然の模倣ではなく、自然の創造であり、用地の狭さというような限定は、つまり、絵におけるカンバスの限定と同じようなものである。
 けれども、茫洋たる大海の孤独さや、沙漠の孤独さ、大森林や平原の孤独さについて考えるとき、林泉の孤独さなどというものが、いかにヒネくれてみたところで、タカが知れていることを思い知らざるを得ない
 竜安寺の石庭が何を表現しようとしているか。いかなる観念を結びつけようとしているか。タウトは修学院離宮の書院の黒白の壁紙を絶賛し、滝の音の表現だと言っているが、こういう苦しい説明までして観賞のツジツマを合わせなければならないというのは、なさけない。けだし、林泉や茶室というものは、禅坊主の悟りと同じことで、禅的な仮説の上に建設された空中楼閣なのである。[中略]
 竜安寺の石庭がどのような深い孤独やサビを表現し、深遠な禅機に通じていても構わない、石の配置がいかなる観念や思想に結びつくかも問題ではないのだ。要するに、我々が涯ない海の無限なる郷愁や沙漠の大いなる落日を思い、石庭の与える感動がそれに及ばざる時には、遠慮なく石庭を黙殺すればいいのである無限なる大洋や高原を庭の中に入れることが不可能だというのは意味をなさない

p.24 l.1〜。

 芭蕉は庭を出て、大自然のなかに自家の庭を見、また、つくった彼の人生が旅を愛したばかりでなく、彼の俳句自体が、庭的なものを出て、大自然に庭をつくった、と言うことができる。その庭には、ただ一本の椎の木しかなかったり、ただ夏草のみがもえていたり、岩と、侵み入る蝉の声しかなかったりする。この庭には、意味をもたせた石だの曲がりくねった松の木などなく、それ自体が直接な風景であるし、同時に、直接な観念なのである。そうして、竜安寺の石庭よりは、よっぽど美しいのだ。と言って、一本の椎の木や、夏草だけで、現実的に、同じ庭をつくることは全くできない相談である。
 だから、庭や建築に「永遠なるもの」を作ることはできない相談だという諦めが、昔から、日本には、あった、建築は、やがて火事に焼けるから「永遠ではない」という意味ではない。建築は火に焼けるし人はやがて死ぬから人生水の泡のごときものだというのは「方丈記」の思想で、タウトは「方丈記」を愛したが、実際、タウトという人の思想はその程度のものでしかなかった。しかしながら、芭蕉の庭を現実的には作り得ないという諦め、人工の限度に対する絶望から、家だの庭だの調度だのというものには全然顧慮しないという生活態度は、特に日本の実質的な精神生活者には愛用されたのである。大雅堂は画室を持たなかったし、良寛には寺すらも必要ではなかった。とはいえ、彼らは貧困に甘んじることをもって生活の本領としたのではない。むしろ、彼らは、その精神において、あまりにも欲が深すぎ、豪奢でありすぎ、貴族的でありすぎたのだ。すなわち、画室や寺が彼らに無意味なのではなく、その絶対のものがあり得ないという立場から、中途半端を排撃し、無きに如かざるの清潔を選んだのだ
 茶室は簡素をもって本領とする。しかしながら、無きに如かざる精神の所産ではないのである。無きに如かざるの精神にとっては、特に払われたいっさいの注意が、不潔であり饒舌である。床の間がいかに自然の素朴さを装うにしても,そのために支払われた注意が、すでに無きに如かざるの物である
 無きに如かざるの精神にとっては、簡素なる茶室も日光の東照宮も、共に同一の「有」の所産であり、詮ずれば、同じ穴の狢なのであるこの精神から眺むれば、桂離宮が単純、高尚であり、東照宮が俗悪だという区別はないどちらも共に饒舌であり、「精神の貴族」の永遠の観賞には堪えられぬ普請なのである
 しかしながら、無きに如かざるの冷酷な批評精神は存在しても、無きに如かざるの芸術というものは存在することができない。存在しない芸術などがあるはずはないのである。そうして、無きに如かざるの精神から、それはそれとして、とにかく一応有形の美に復帰しようとするならば、茶室的な不自然なる簡素を排して、人力の限りを尽くした豪奢、俗悪なるものの極点において開花を見ようとすることもまた自然であろう。簡素なるものも豪華なるものも共に俗悪であるとすれば、俗悪を否定してなお俗悪たらざるを得ぬ惨めさよりも、俗悪ならんとして俗悪である闊達自在さがむしろ取り柄だ

p.25 l.16〜。

 この精神を、僕は秀吉において見る。いったい、秀吉という人は、芸術について、どの程度の理解や、観賞力があったのだろう? そうして、彼の命じた多方面の芸術に対して、どの程度の差し出口をしたのであろうか。秀吉自身は工人ではなく、おのおのの個性を生かしたはずなのに、彼の命じた芸術には、実に一貫した性格があるのである。それは、人工の極致、最大の豪奢ということであり、その軌道にあるかぎりは清濁合わせた呑むの概がある。城を築けば、途方もない大きな石を持ってくる。三十三間堂の塀ときては塀の中の巨人であるし、智積院の屏風ときては、あの前にすわった秀吉が花の中の小猿のように見えたであろう。芸術も糞もないようである。一つの最も俗悪なる意思による企業なのだ。けれども、否定することのできない落ち着きがある。安定感があるのである。
 いわば、事実において、彼の精神は「天下者」であったと言うことができる。家康も天下を握ったが、彼の精神は天下者ではない。そうして、天下を握った将軍たちは多いけれども天下者の精神を持った人は、秀吉のみであった。金閣寺も銀閣寺も、およそ天下者の精神からは縁の遠い所産である。いわば、金持ちの風流人の道楽であった。
 秀吉においては、風流も、道楽もない彼のなす一切合財のものが全て天下一でなければ納まらない狂的な意欲の表われがあるのみ。ためらいの跡がなく、一歩でも、控えてみたという形跡がない。天下の美女をみんなほしがり、くれない時には千利休も殺してしまう始末である。あらゆる駄々をこねることができた。そうして、実際、あらゆる駄々をこねた。そうして、駄々っ子のもつ不逞な安定感というものが、天下者のスケールにおいて、彼の残した多くのものに一貫して開花している。ただ、天下者のスケールが、日本的に小さいという憾みはある。そうして、あらゆる駄々をこねることができたけれども、しかもすべてを意のままにすることはできなかったという天下者のニヒリズムをうかがうこともできるおのである。だいたいにおいて、極点の華麗さには妙な悲しみがつきまとうものだが、秀吉の足跡にもそのようなものがあり、しかも端倪すべからざるところがある。

p.28 l.1〜。

 俗なる人は俗に、小なる人は小に、俗なるまま小なるままのおのおのの悲願を、まっとうに生きる姿がなつかしい。芸術もまたそうである。まっとうでなければならぬ。寺があって、後に、坊主があるのではなく、坊主があって、寺があるのだ。寺がなくとも、良寛は存在する。もし、我々に仏教が必要ならば、それは坊主が必要なので、寺が必要なのではないのである。京都や奈良の古い寺がみんな焼けても、日本の伝統は微動もしない。日本の建築すら、微動もしない。必要ならば、新たに造ればよいのである。バラックで、結構だ。

p.28 l.15〜。

 僕は「檜垣」を世界一流の文学だと思っているが、能の舞台を見たいとは思わない。もう我我には直接連絡しないような表現や唄い方を、退屈しながら、せめて一粒の砂金を待って辛抱するのが堪えられぬからだ。舞台は僕が想像し、僕がつくれば、それでいい。天才世阿弥は永遠に新ただけれども、能の舞台や唄い方や表現形式が永遠に新たかどうか疑わしい。古いもの、退屈なものは、亡びるか、生まれ変わるのが当然だ

「三 家について」から。p.29 l.12〜。

 「帰る」ということは、不思議な魔物だ。「帰ら」なければ、悔いも悲しさもないのである。「帰る」以上、女房も、子供も、母もなくとも、どうしても、悔いと悲しさから逃げることができないのだ。帰るということの中には、必ず、ふりかえる魔物がいる。
 この悔いや悲しさから逃れるためには、要するに帰らなければいいのである。そうして、いつも、前進すればいい。ナポレオンは常に前進し、ロシヤまで、退却したことがなかった。けれども、彼ほどの大天才でも、家を逃げることができないはずだ。そうして、家がある以上は必ず帰らなければならぬ。そうして、帰る以上は、やっぱり僕と同じような不思議な悔いと悲しさから逃げることができないはずだ、と僕は考えているのである。だが、あの天才は、僕とは別の鋼鉄だろうか。いや、別の鋼鉄だからなおさら……と,僕は考えているのだ。そうして、孤独の部屋で蒼ざめた鋼鉄人の物思いについて考える。
 叱る母もなく、怒る女房もいないけれども、家へ帰ると、叱られてしまう人は孤独で誰に気がねのいらない生活の中でも、決して自由ではないのである

「四 美について」から。p.31 l.6〜。

 三年前に取手という町に住んでいた。[中略]
 この町から上野まで五十六分しかかからぬのだが、利根川、江戸川、荒川という三ツの大きな川を越え、その一つの川岸に小菅刑務所があった。汽車は、この大きな近代風の建築物を眺めて走るのである。非常に高いコンクリートの塀がそびえ、獄舎は堂々と翼を張って十字の形にひろがり、十字の中心交叉点に大工場の煙突よりも高々とデコボコの見張りの塀が突っ立っている。
 もちろん、この大建築物には一か所の美的装飾というものもなく、どこから見ても刑務所然としており、刑務所以外の何物でもあり得ない構えなのだが、不思議に心を惹かれる眺めである
 それは刑務所の観念と結びつき、その威圧的なもので僕の心に迫るのとは様子が違う。むしろ、懐かしいような気持ちである。つまり、結局、どこかしら、その美しさで僕の心を惹いているのだ。利根川の風景も、手賀沼も、その刑務所ほど僕の心を惹くことがなかった。
 いったい、ほんとに美しいのかしら、と、僕は時々考えた。

p.32 l.10〜。

 これに似た他の経験が、もう一つハッキリ心に残っている。
 もう、十数年の昔になる。そのころはまだ学生で、僕は酒も飲まない時だが、友人たちと始めて同人雑誌をだし、酒を飲まないから、勢い、そぞろ歩きをしながら五時間六時間と議論を続けることになる。そのため、足の向くままに、実に諸方の道を歩いた。[中略]
 銀座から築地へ歩き、渡舟に乗り、佃島に渡ることが、よくあった。この渡舟は終夜運転だから、帰れなくなる心配はない。佃島は一間ぐらいの暗くて細い道の両側に「佃茂」だの「佃一」だのという家が並び、佃煮屋かもしれないが、漁村の感じで、渡舟を降りると、突然遠い旅に来たような気持ちになる。とても川向こうが銀座だとは思われぬ。こんな旅の感じが好きであったが、ひとつには、聖路加病院の近所にドライアイスの工場があってそこに雑誌の同人が勤めていたため、この方面へ足の向く機会が多かったのである。
 さて、ドライアイスの工場だが、これが奇妙に僕の心を惹くのであった。
 工場地帯では変哲でもない建物であるかもしれぬ。起重機だのレールのようなものがあり、右も左もコンクリートで頭上のはるか高い所にも、倉庫からつづいてくる高架レールのようなものが飛び出し、ここにもいっさい美的考慮というものがなく、ただ必要に応じた設備だけで一つの建築がなりたっている。町屋のなかでこれを見ると、魁偉であり、異観であったが、しかし、ずぬけて美しいことがわかるのだった
 聖路加病院の堂々たる大建築。それに較べればあまり小さく、貧困な構えであったが、それにもかかわらず、この工場の緊密な質量感に較べれば、聖路加病院は子供の細工のようなたあいもあい物であった。この工場は僕の胸に食い入り、はるか郷愁につづいて行く大らかな美しさがあった。
 小菅刑務所とドライアイスの工場。この二つの間聯について、僕はふと思うことがあったけれども、そのどちらにも、僕の郷愁をゆりうごかす逞しい美観があるということ以外には、強いて考えてみたことがなかった。法隆寺だの平等院の美しさとは全然違う。しかも、法隆寺だの平等院は、古代とか歴史というものを念頭に入れ、一応、何か納得しなければならぬような美しさである。直接心に突き当たり、はらわたに食い込んでくるものではない。どこかしら物足りなさを補わなければ、納得することができないのである。小菅刑務所とドライアイスの工場は、もっと直接突き当たり、補う何物もなく、僕の心をすぐ郷愁へ導いていく力があった。なぜだろう、ということを、僕は考えずにいたのである。

p.34 l.5〜。

 ある春先、半島の尖端の港へ旅行にでかけた。その小さな入江の中に、駆逐艦が休んでいた。それは小さな、何か謙虚な感じをさせる軍艦であったけれども、一見したばかりで、その美しさは僕の魂をゆりうごかした。僕は浜辺に休み、水にうかぶ黒い謙虚な鉄塊を飽かず眺めつづけ、そうして、小菅刑務所とドライアイスの工場と軍艦と、この三つのものを一にして、その美しさの正体を思いだしていたのであった。
 この三つのものが、何故かくも美しいかここには、美しくするために加工された美しさが、いっさいない美というものの立場から付け加えた一本の柱も鋼鉄もなく、美しくないという理由によって、取り去った一本の柱も鋼鉄もない。ただ必要なもののみが、必要な場所に置かれた。そうして、不要なる物はすべて除かれ、必要のみが要求する独自の形ができ上がっているのである。それは、それ自身に似るほかには、他の何物にも似ていない形である。必要によって柱は遠慮なく歪められ、鋼鉄はデコボコに張りめぐらされ、レールは突然頭上から飛ぶ出してくる。すべては、ただ、必要ということだ。そのほかのどのような旧来の観念も、この必要のやむべからず生成をはばむ力とはなり得なかった。そうして、ここに、何物にも似ない三つのものができ上がったのである。

p.35 l.1〜。

 僕の仕事である文学が、全く、それと同じことだ。美しく見せるための一行があってはならぬ。美は,特に美を意識してなされたところからは、生まれてこない。どうしても書かなければならぬこと、書く必要のあること、ただ、そのやむべからざる必要にのみ応じて、書きつくされなければならぬただ「必要」であり、一も二も百も、終始一貫ただ「必要」のみそうして、この「やむべからざる実質」がもとめたところの独自の形態が、美を生むのだ実質からの要求をはずれ、美的とか詩的という立場に立って一本の柱を立てても、それは、もう、たあいもない細工物になってしまう。これが、散文の精神であり、小説の真骨頂である。そうして、同時に、あらゆる芸術の大道なのだ。
 問題は、汝の書こうとしたことが、真に必要なことであるか、ということだ。汝の生命と引き換えにしても、それを表現せずにはやみがたいところの汝みずからの宝石であるか、どうか、どいうことだ。そうして、それが、その要求に応じて、汝の独自なる手により、不要なる物を取り去り、真に適切に表現されているか、どうかということだ。

p.35 l.13〜。

 百メートルを疾走するオウエンスの美しさと二流選手の動きには、必要に応じた完全なる動きの美しさと、応じ切れないギコチなさの相違がある。僕が中学生のころ、百メートルの選手といえば、痩せて、軽くて、足が長くて、スマートでなければならぬときまっていた。ふとった重い男はもっぱら投擲の方へ廻され、フィールドの片隅で砲丸を担いだりハンマーを振り回していたのである。日本にも来たことのあるパドックだのシムプソンのころまでは、そうだった。メトカルフだのトーランが現われたころから、短距離には重い身体の加速度が最後の条件であると訂正され、スマートは身体は中距離の方へ廻されるようになったのである。いつか、羽田飛行場へでかけて、イ−十六型戦闘機を見たが、飛行場の左端に姿を現わしたかと思ううちに右端へ飛び去り、呆れ果てた速力であった。かつての日本の戦闘機は格闘性に重点を置き、速力を二の次にするから、速さの点では比較にならない。イ−十六は胴体が短く、ずんぐり太っていて、ドッシリとした重量感があり、近代式の百メートルの選手の体格の条件に全くよく当てはまっているのである。スマートなところは微塵もなく、あくまで不恰好にでき上がっているが、その重量の加速度によって風を切る速力的な美しさは、スマートな旅客機などの比較にならぬものがあった。
 見たところのスマートさだけでは、真に美なる物とはなり得ないすべては、実質の問題だ美しさのための美しさは素直でなく、結局、ほんとうの物ではないのである要するに、空虚なのだそうして、空虚なものは、その真実のものいよって人を打つことは決してなく、詮ずるところ、あってもなくても構わない代物である。法隆寺も平等院も焼けてしまっていっこうに困らぬ。必要ならば、法隆寺をとり壊して停車場をつくるがいい。我が民族の光輝ある文化や伝統は、そのことによって決して亡びはしないのである。武蔵野の静かな落日はなくなったが、累々たるバラックの屋根に夕陽が落ち、埃のために晴れた日も曇り月夜の景観に代わってネオン・サインが光っている。ここに我々の実際の生活が魂を下ろしているかぎり、これが美しくなくて、なんだろうか。見たまえ、空には飛行機がとび海には鋼鉄が走り、高架線を電車が轟々と駈けて行く。我々の生活が健康であるかぎり、西洋風の安直なバラックを模倣して得得としても、我々の文化は健康だ我々の伝統も健康だ。必要ならば公園をひっくり返して菜園にせよ。それが真に必要ならば、必ずそこにも真の美が生まれるそこに真実の生活があるからだそうして、真に生活するかぎり、猿真似を羞ることはないのであるそれが真実の生活であるかぎり、猿真似にも、独創と同一の優越があるのである

_/_/_/_/_/

2005-10-03(月)

曇り。

ビックハウス & ツルハドラッグ。

昼ごはん。味噌ラーメン@松月

ダイシン。植木屋。

時には,(本人にしてみれば) 苦しさを理由に,「自分をこの世から「抹消」してしまわない」ための闘い,である病もあることは,その病を患った者にしか分からないかもしれない。「抹消」してしまわないためにも,そのこと自体を普通に顕すことばはあえて使わない。そのための禁忌。

坂口安吾「堕落論」(角川文庫版 ISBN:4-04-110003-8) 所収,「続堕落論」(1946.12『文学季刊』(「堕落論・続編」発表) より。p.103 l.1〜。

 敗戦後国民の道義頽廃せりというのだが、しからば戦前の「健全」なる道義に復することが望ましきことなりや、賀すべきことなりや、私は最も然らずと思う。

p.103 l.9〜。

 百万長者が五十銭の車代を三十銭にねぎることが美徳なりや。我らの日常お手本とすべき生活であるか。この話一つについての問題ではない。問題はかかる話の底をつらぬく精神であり、生活のありかたである。

p.105 l.14〜。

 農村の美徳は耐乏、忍苦の精神だという。乏しきに絶える精神などがなんで美徳であるものか。必要は発明の母と言う。乏しきに耐えず、不便に耐え得ず、必要を求めるところに発明が起こり,文化が起こり、進歩というものが行なわれてくるのである。日本の兵隊は耐乏の兵隊で、便利の機械は渇望されず、肉体の酷使耐乏が謳歌せられて、兵器は発達せず、根柢的に作戦の基礎が欠けてしまって、今日の無残きわまる大敗北となっている。あに兵隊のみならんや。日本の精神そのものが耐乏の精神であり、変化を欲せず、進歩を欲せず、憧憬賛美が過去へ向けられ、たまさかに現われいでる進歩的精神はこの耐乏的反動精神の一撃を受けて常に過去へ引き戻されてしまうのである
 必要は発明の母という。その必要をもとめる精神を、日本ではナマクラの精神などと言い、耐乏を美徳と称す。一理二里は歩けという。五階六階はエレベータアなどとはナマクラ千万の根性だという。機械に頼って勤労精神を忘れるのは亡国のもとだという。すべてがあべこべなのだ。真理は偽らぬものである。すなわち真理によって復讐せられ、肉体の勤労にたより、耐乏の精神によって今日亡国の悲運をまねいたではないか。
 ボタン一つ押し、ハンドルを廻すだけですむことを、一日中エイエイ苦労して、汗の結晶だの勤労のよろこびなどと、馬鹿げた話である。しかも日本全体が、日本の根柢そのものが、かくのごとく馬鹿げきっているのだ。

p.106 l.12〜。

 いまだに代議士諸公は天皇制について皇室の尊厳などと馬鹿げきったことを言い、大騒ぎをしている。天皇制というものは日本歴史を貫く一つの制度ではあったけれども、天皇の尊厳というものは常に利用者の道具にすぎず、真に存在したためしはなかった
 藤原氏や将軍家にとって何がために天皇制が必要であったか。何がゆえに彼ら自身が最高の主権を握らなかったか。それは彼らみずからが主権を握るよりも、天皇制が都合がよかったからで、彼らは自分自身が天下に号令するよりも、天皇に号令させ、自分がまっさきにその号令に服従してみせることによって号令がさらによく行きわたることを心得ていた。その天皇の号令とは天皇自身の意思ではなく、実は彼らの号令であり、彼らは自分の欲するところを天皇の名において行い、自分がまずまっさきにその号令に服してみせる、自分が天皇に服す範を人民に押しつけることによって、自分の号令を押しつけるのである。
 自分みずからを神と称し絶対の尊厳を人民に要求することは不可能だ。だが、自分が天皇にぬかずくことによって天皇を神たらしめ、それを人民に押しつけることは可能なのである。そこで彼らは天皇の擁立を自分勝手にやりながら、天皇の前にぬかずき、自分がぬかずくことによって天皇の尊厳を人民に強要し、彼らは真に骨の髄から盲目的に崇拝し、同時に天皇をもてあそび、わが身の便利の道具とし、冒涜の限りをつくしていた。そして、現在もなお、代議士諸公は天皇の尊厳を云々し、国民はまた、おおむねそれを支持している。

p.107 l.15〜。

 たえがたきを忍び、忍びがたきを忍んで、朕の命令に服してくれという。すると国民は泣いて、ほかならぬ陛下の命令だから、忍びがたいけれども忍んで負けよう、と言う。嘘をつけ! 嘘をつけ! 嘘をつけ!
 我ら国民は戦争をやめたくて仕方がなかったのではないか。竹槍をしごいて戦車に立ちむかい、土人形のごとくにバタバタ死ぬのが厭でたまらなかったのではないか。戦争の終わることを最も切に欲していた。そのくせ、それが言えないのだ。そして大義名分といい、また、天皇の命令という。忍びがたきを忍ぶという。何というカラクリだろう。惨めともまたなさけない歴史的大欺瞞ではないか。しかも我らはその欺瞞を知らぬ。天皇の停戦命令がなければ、実際戦車に体当たりをし、厭々ながら勇壮に土人形となってバタバタ死んだのだ。最も天皇を冒涜する軍人が天皇を崇拝するごとくに、我々国民はさのみ天皇を崇拝しないが、天皇を利用することには狎れており、そのみずからの狡猾さ、大義名分というずるい看板をさとらずに、天皇の尊厳のご利益を謳歌している。何たるカラクリ、また、狡猾さであろうか。我々はこの歴史的カラクリに憑かれ、そして、人間の、人性の、正しい姿を失ったのである
 人間の、また人性の正しい姿とは何ぞや、欲するところを素直に欲し、厭な物を厭だと言う、要はただそれだけのことだ。好きなものを好きだという、好きな女を好きだという、大義名分だの、不義は御法度だの、義理人情というニセの着物をぬぎさり、赤裸々な心になろう、この赤裸々な姿を突きとめ見つめることがまず人間の復活の第一の条件だ。そこから自分と、そして人性の、真実の誕生と、その発足が始められる。

p.109 l.6〜。

 日本国民諸君、私は諸君に、日本人および日本自体の堕落を叫ぶ。日本および日本人は堕落しなければならぬと叫ぶ
 天皇制が存続し、かかる歴史的カラクリが日本の観念にからみ残って作用するかぎり、日本に人間の、人性の正しい開花はのぞむことができないのだ。人間の正しい光は永遠にとざされ、真の人間的幸福も、人間的苦悩も、すべて人間の真実なる姿は日本を訪れる時がないだろう私は日本は堕落せよと叫んでいるが、実際の意味はあべこべであり、現在の日本が、そして日本的思考が、現に大いなる堕落に沈淪しているのであって、我々はかかる封建遺制のカラクリにみちた「健全なる道義」から転落し、裸となって真実の大地へ降り立たなければならない我々は「健全なる道義」から堕落することによって、真実の人間に復帰しなければならない
 天皇制だの、武士道だの、耐乏の精神だの、五十銭を三十銭にねぎる美徳だの、かかるもろもろのニセの着物をはぎとり、裸となり、ともかく人間となって出発し直す必要がある。さもなければ、我々は再び昔日の欺瞞の国に逆戻りするばかりではないか。まず裸となり、とらわれたるタブーをすて、己れの真実の声をもとめよ。未亡人は恋愛し地獄へ堕ちよ。復員軍人は闇屋となれ。堕落自体は悪いことにきまっているが、モトデをかけずにホンモノをつかみだすことはできない表面の奇麗ごとで真実の代償を求めることは無理であり、血を賭け、肉を賭け、真実の悲鳴を賭けねばならぬ堕落すべき時には、まっとうに、まっさかさまに堕ちねばならぬ道義頽廃、混乱せよ血を流し、毒にまみれよまず地獄の門をくぐって天国によじ登らなければならない手と足の二十本の爪を血ににじませ、はぎ落として、じりじりと天国に近づく以外に道があろうか
 堕落自体は常につまらぬものであり、悪であるにすぎないけれども、堕落のもつ性格の一つには孤独という偉大なる人間の実相が厳として存している。すなわち堕落は常に孤独なものであり、他の人々に見すてられ、父母にまで見すてられ、ただみずからに頼る以外に術のない宿命を帯びている。
 善人は気楽なもので、父母兄弟、人間どもの虚しい義理や約束の上に安眠し、社会制度というものに全身を投げかけて平然として死んで行く。だが,堕落者は常にそこからハミだして、ただ一人曠野を歩いていくのである悪徳はつまらぬものではあるけれども、孤独という通路は神に通じる道であり、善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや、とはこの道だ。キリストが淫売婦にぬかずくのもこの曠野のひとり行く道に対してであり、この道だけが天国に通じているのだ。何万、何億の堕落者は常に天国に至り得ず、むなしく地獄をひとりさまようにしても、この道が天国に通じているということに変わりはない。
 悲しいかな、人間の実相はここにある。しかり、実に悲しいかな、人間の実相はここにある。この実相は社会制度により、政治によって、永遠に救い得べきものではない

p.112 l.112〜。

 政治、そして社会制度は目のあらい網であり、人間は永遠に網にかからぬ魚である。天皇制というカラクリを打破して新たな制度をつくっても、それも所詮カラクリの一つの進化にすぎないこともまぬがれがたい運命なのだ。人間は常に網からこぼれ、堕落し、そして制度は人間によって復讐される。
 私は元来世界聯邦も大いに結構だと思っており、咢堂の説くごとく、まもるに価する日本人の血などありはしないと思っているが、しかしそれによって人間が幸福になりうるか、人間の幸福はそういうところには存在しない。人の真実の生活はさようなところには存在しない。日本人が世界人になることは不可能ではなく、実は案外簡単になりうるものであるのだが、人間と人間、個の対立というものは永遠に失わるべきものではなく、しかして、人間の真実の生活とは、常にただこの個の対立の生活の中に存しておる

p.114 l.1〜。

 生々流転、無限なる人間の永遠の未来に対して、我々の一生などは露の命であるにすぎず、その我々が絶対不変の制度だの永遠の幸福を云々し未来に対して約束するなどチョコザイ千万なナンセンスにすぎない。無限また永遠の時間に対して、その人間の進化に対して、恐るべき冒涜ではないか。我々のなしうることは、ただ、少しずつよくなれということで、人間の堕落の限界も、実は案外、その程度でしかあり得ない。人間は無限に堕ちきれるほど堅牢な精神にめぐまれていない。何物かカラクリによって落下をくいとめずにいられなくなるであろう。そのカラクリをつくり、そのカラクリをくずし、そして人間は進む堕落は制度の母胎であり、そのせつない人間の実相を我々はまず最もきびしく見つめることが必要なだけだ

_/_/_/_/_/

2005-10-02(日)

曇りのち雨。

ほとんど寝て過ごす。

思い返せば,祖父・祖母の命日も墓所も知らないままであることに気づく。

移動先に残っていた坂口安吾「堕落論」(角川文庫さ-2-2 角川書店:発行 ISBN:4-04-110003-8) (先日買ったのと同じ物だが版数がだいぶ違う (「改版47版」と「改版79版」) が中身は同じ) を読み直し始める。やはり,今になっても「堕落論」は,「時代」を背景にしなければならない部分はあろうとも,その主旨はまだ,古くならない。荘厳に見えて実は浮薄に過ぎない「大義」よりも,堕ちてからこその「現実」より始めねばならないのは,「戦後 60年」(「戦後」と書くのは,本当に正しいか?) 経っても変わらない。ただ,欠けているのは,「これが日本人なのだ」というときの「日本人」とは誰なのか,という部分。「国籍」か「血」か「文化」(ってのも何?) か。「処女の純潔」とかいうのも「時代」か。

上記所収「堕落論」(1946/04『新潮』発表) より。p.91 l.1〜 (強調は引用者による)。

 半年のうちに世相は変わった。醜の御盾といでたつ我は。大君のへにこそしなめかえりみはせじ。若者たちは花と散ったが、同じ彼らが生き残って闇屋となる。ももとせの命ねがわじいつの日か御盾とゆかん君とちぎりて。けなげな心情で男を送った女たちも半年の月日のうちに夫君の位牌にぬかずくことも事務的になるばかりであろうし、やがて新たな面影を胸に宿すのも遠い日のことではない。人間が変わったのではない。人間は元来そういうものであり、変わったのは世相の上皮だけのことだ
 昔、四十七士の助命を排して処刑を断行した理由の一つは、彼らが生きながらえて生き恥をさらし、せっかくの名を汚す者が現れてはいけないという老婆心であったそうな。現代の法律にこんな人情は存在しない。けれども人の心情には多分にこの傾向が残っており、美しいものを美しいままで終わらせたいということは一般的な心情の一つのようだ。

p.92 l.2〜。

 この戦争中、文士は未亡人の恋愛を書くことを禁じられていた。戦争未亡人を挑発堕落させてはいけないという軍人政治家の魂胆で彼女たちに使徒の余生を送らせようと欲していたのであろう。軍人たちの悪徳に対する理解力は敏感であって、彼らは女心の変わりやすさを知らなかったわけではなく、知りすぎていたので、こういう禁止項目を案出に及んだまでであった。
 いったいが日本の武人は古来婦女子の心情を知らないと言われているが、これは皮相の見解で、彼らの案出した武士道という武骨千万な法則は人間の弱点に対する防壁がその最大の意味であった
 武士は仇討ちのために草の根を分け乞食となっても足跡を追いまくらねばならないというのであるが、真に復讐の情熱をもって仇敵の足跡を追いつめた忠臣孝子があったであろうか。彼らの知っていたのは仇討ちの法則と法則に規定された名誉だけで、元来日本人は最も憎悪心の少ないまた永続しない国民であり、昨日の敵は今日の友という楽天性が実際の偽らぬ心情であろう。昨日の敵と妥協否肝胆相照らすのは日常茶飯事であり、仇敵なるがゆえにいっそう肝胆相照らし、たちまち二君に仕えたがるし、昨日の敵にも仕えたがる。生きて捕虜の恥を受けるべからず、というが、こういう規定がないと日本人を戦闘にかりたてるのは不可能なので、我我は規約に従順であるが、我々の偽らぬ心情は規約と逆なものである

p.93 l.15〜。

 私は天皇制についても、きわめて日本的な(したがってあるいは独創的な)政治的作品をみるのである。天皇制は天皇によって生みだされたものではない。天皇は時にみずから陰謀を起こしたこともあるけれども、概して何もしておらず、その陰謀は常に成功のためしがなく、島流しとなったり、山奥へ逃げたり、そして結局常に政治的理由によってその存立を認められてきた。社会的に忘れた時にすら政治的に担ぎだされてくるのであって、その存立の政治的理由はいわば政治家たちの嗅覚によるもので、彼らは日本人の性癖を洞察し、その性癖の中に天皇制を発見していた。それは天皇家に限るものではない。代わり得るものならば、孔子家でも釈迦家でもレーニン家でも構わなかった。ただ代わり得なかっただけである。
 すくなくとも日本の政治家たち(貴族や武士)は自己の永遠の隆盛(それは永遠ではなかったが、彼らは永遠を夢みたであろう)を約束する手段として絶対君主の必要を嗅ぎつけていた。平安時代の藤原氏は天皇の擁立を自分勝手にやりながら、自分が天皇の下位であるのを疑りもしなかったし、迷惑にも思っていなかった。天皇の存在によってお家騒動の処理をやり、弟は兄をやりこめ、兄は父をやっつける。彼らは本能的な実質主義者であり、自分の一生が愉しければよかったし、そのくせ朝儀を盛大にして天皇を拝賀する奇妙な形式が大好きで、満足していた。天皇を拝むことが、自分自身の威厳を示し、また、みずから威厳を感じる手段でもあったのである

p.95 l.5〜。

 日本人のごとく権謀術数を事とする国民には権謀術数のためにも大義名分のためにも天皇が必要で、個々の政治家は必ずしもその必要を感じていなくとも、歴史的な嗅覚において彼らはその必要を感じるよりもみずからの居る現実を疑ぐることがなかったのだ。秀吉は聚楽に行幸を仰いでみずから盛儀に泣いていたが、自分の威厳をそれによって感じると同時に、宇宙の神をそこに見ていた。これは秀吉の場合であって、他の政治家の場合ではないが、権謀術数がたとえば悪魔の手段にしても、悪魔が幼児のごとくに神を拝むことも必ずしも不思議ではない。どのような矛盾もあり得るのである。
 要するに天皇制というのも武士道と同種のもので、女心は変わりやすいから「節婦は二夫に見えず」という、禁止自体は非人間的、反人性的であるけれども、洞察の真理において人間的であることと同様に、天皇制自体は真理ではなく、また自然でもないが、そこに至る歴史的な発見や洞察において軽々しく否定しがたい深刻な意味を含んでおり、ただ表面的な真理や自然法則だけでは割り切れない

p.98 l.18〜。

 あの偉大な破壊の下では、運命はあったが、堕落はなかった。無心であったが、充満していた。猛火をくぐって逃げのびてきた人たちは、燃えかけている家のそばに群がって寒さの暖をとっており、同じ火に必死に消火につとめている人々から一尺離れているだけで全然別の世界にいるのであった。偉大な破壊、その驚くべき愛情。偉大な運命、その驚くべき愛情。それに比べれば、敗戦の表情はただの堕落にすぎない。
 だが堕落ということの驚くべき平凡さや平凡な当然さに比べると、あのすさまじい偉大な破壊の愛情や運命に従順な人間たちの美しさも、泡沫のような虚しい幻影にすぎないという気持ちがする
 徳川幕府の思想は四十七士を殺すことによって永遠の義士たらしめようとしたのだが、四十七士の堕落のみは防ぎ得たにしたところで、人間自体が常に義士から凡俗へ、また地獄へ転落しつづけていることを防ぎうるよしもない。節婦は二夫に見えず、忠臣は二君に仕えず、と規約を制定してみても人間の転落は防ぎ得ず、よしんば処女を刺し殺してその純潔を保たしめることに成功しても、堕落の平凡な跫音、ただ打ちよせる波のようなその当然な跫音に気づくとき、人為の卑小さ、人為によって保ち得た処女の純潔の卑小さなどは泡沫のごとき虚しい幻影にすぎないことをみいださずにはいられない。
 特攻隊の勇士はただ幻影であるにすぎず、人間の歴史は闇屋となるところから始まるのではないか。未亡人が使徒たることも幻影にすぎず、新たな面影を宿すところから人間の歴史が始まるのではないか。そしてあるいは天皇もただ幻影であるにすぎず、ただの人間になるところから真実の天皇の歴史が始まるのかもしれない。
 歴史という生き物の巨大さと同様に人間自体も驚くほど巨大だ。生きるという事は実に唯一の不思議である。六十七十の将軍たちが切腹もせず轡を並べて法廷にひかれるなどとは終戦によって発見された壮観な人間図であり、日本は負け、そして武士道は亡びたが、堕落という真実の母胎によって始めて人間が誕生したのだ生きよ堕ちよ、その正当な手順のほかに、真に人間を救い得る便利な近道がありうるだろうか

p.101 l.1.〜。

 終戦後、我々はあらゆる自由を許されたが、人はあらゆる自由を許されたとき、自らの不可解な限定とその不自由さに気づくであろう人間は永遠に自由ではあり得ない。なぜなら人間は生きており、また死なねばならず、そして人間は考えるからだ。政治上の改革は一日にして行われるが、人間の変化はそうは行かない。遠くギリシャに発見され確立の一歩を踏みだした人性が、今日、どれだけの変化を示しているであろうか。
 人間。戦争がどんなすさまじい破壊と運命をもって向かうにしても人間自体をどうなしうるものでもない。戦争は終わった。特攻隊の勇士はすでに闇屋となり、未亡人はすでに新たな面影によって胸をふくらませているではないか。人間は変わりはしない。ただ人間へ戻ってきたのだ人間は堕落する。義士も聖女も堕落する。それを防ぐことはできないし、防ぐことによって人を救うことはできない。人間は生き、人間は堕ちる。そのこと以外の中に人間を救う便利な近道はない。
 戦争に負けたから堕ちるのではないのだ。人間だから堕ちるのであり、生きているから堕ちるだけだ。だが人間は永遠に堕ちぬくことはできないだろう。なぜなら人間の心は苦難に対して鋼鉄のごとくではあり得ない。人間は可憐であり脆弱であり、それゆえ愚かなものであるが、堕ちぬくためには弱すぎる。人間は結局処女を刺殺せずにはいられず、武士道をあみださずにはいられず、天皇を担ぎださずにはいられなくなるだろう。だが他人の処女でなしに自分自身の処女を刺殺し、自分自身の武士道、自分自身の天皇をあみだすだめには、人は正しく堕ちる道を堕ちきることが必要なのだ。そして,人のごとくに日本もまた堕ちることが必要であろう。堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し、救わなければならない。政治による救いなどは上皮だけの愚にもつかない物である。

_/_/_/_/_/

2005-10-01(土)

曇り。

一応,メールサーバの枠を 1000→5000 に変更。

移動 (3015B) 4-7-D。切符を買ってからほとんど時間の余裕も少なかったので,格別の土産は無し。500ml ペットボトルのお茶 x2 と,とりあえずの土産 (干しホヤ) と。それに,MP3 Player (Nextway / 丸紅インフォテック/ Nextway「D Cube NMP-612TD」(どういう訳だか,http://www.nextway.jp/ は,"404 Not Found" を返してくる) 用に Panasonic「オキシライド乾電池単3形2本パック ZR6Y/2VB」と SONY「ノイズキャンセリングヘッドホン MDR-NC11」用に SONY「単4形アルカリ乾電池「STAMINA EX」LR03SG-2PC」購入。たぶん,プレイヤもヘッドフォンも,バッテリは持つと思うけれど。

_/_/_/_/_/

[2005.10] [おもいつき] [ほーむ]