聖徳太子と法隆寺

聖徳太子   法隆寺西院
[聖徳太子]   [法隆寺 西院伽藍]

574(敏達3)年、父、用明天皇、母、穴穂部間人皇后の皇子(厩戸皇子)として生誕しました。用明天皇の母・堅塩媛、穴穂部間人皇后の母・小姉君は、ともに蘇我稲目の娘で、蘇我馬子とは兄妹でした。また、妃の一人、刀自古郎女は、蘇我馬子の娘でした。

593年、推古天皇が即位し、甥の厩戸皇子を皇太子に立て(聖徳太子)、摂政 に任じ、国政を委ねましが、事実上は、太子と馬子との共同執政といわれます。

601(推古9)年には、聖徳太子は斑鳩宮を造営し、政治の基調に仏教を採用し、文化の向上と仏教の興隆を目指し、

などを行いました。

法隆寺西院 飛鳥時代の遺構を伝える法隆寺は、金堂に安置されている薬師如来の光背銘によると、用明天皇が自らの病気平癒を祈って薬師像と寺の建立を発願したが、その完成を待たずに崩御し、その遺命を受けた推古天皇と聖徳太子が607(推古15)年に完成したとあります。 金堂釈迦三尊像の光背銘によると、621(推古29)年に間人皇后が亡くなり、622(推古30)年に太子も病いに倒れ、太子を看病していた妃膳夫人も病床に臥したといいます。そのとき、他の太子の妃や山背大兄皇子をはじめとする皇子、諸臣が太子と等身の釈迦像の造顕を発願したが、膳夫人、聖徳太子と相次いで薨去したといいます。そこで、623(推古31)年に釈迦像を仏師・鞍作止利に造らせたと伝えられます。 そして643(皇極2)年、蘇我入鹿に攻められた山背大兄皇子一族は、斑鳩寺で自害し、聖徳太子一族は滅亡しました。

『日本書紀』によると、670(天智9)年に法隆寺は一屋も余すことなく焼失したといいます。金堂と五重塔を擁する現在の西院伽藍は、天武・持統朝に着工され和銅年間(708〜714)には完成されていたといわれます。


ここに、引用する「日本書紀」は、岩波書店「日本古典文学大系新装版」に拠りました。
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