略年表

574(敏達3)年 聖徳太子、用明天皇の皇子として生誕(厩戸皇子)
586(用明元)年 用明天皇、法隆寺と薬師仏の造立を発願
587(崇峻元)年 蘇我馬子が物部守屋を討滅。厩戸皇子、守屋討伐軍に参加し、四天王寺を発願
『日本書紀』−−「(崇峻元年)・・・乃ち白膠木をきり取りて、疾く四天王の像に作りて、頂髪に置きて、誓を発てて言はく、「今若し我をして敵に勝たしめたまはば、必ず護世四王の奉為に、寺塔を起立てむ」とのたまふ。」
589年 隋、中国を統一
593(推古元)年 厩戸皇子、難波の荒陵(大阪市天王寺区)に四天王寺を造る
593(推古元)年 厩戸皇子が立太子して摂政となる
『日本書紀』−−「(推古元年)・・・厩戸豊聡耳皇子を立てて、皇太子とす。仍りて録摂政らしむ。萬機を以て悉に委ぬ。」
595(推古3)年 太子の師、高句麗僧慧慈が渡来
601(推古9)年 聖徳太子、斑鳩宮を建立
602(推古10)年 聖徳太子の同母弟来目皇子を撃新羅将軍に任命
603(推古11)年 聖徳太子の異母兄当麻皇子を征新羅将軍に任命
603(推古11)年 秦河勝、蜂岡寺(広隆寺)を造る
『日本書紀』−−「(推古十一年)・・・皇太子、諸の大夫に謂りて日はく、「我、尊き仏像有てり。誰か是の像を得て恭拝らむ」とのたまふ。時に、秦造河勝進みて日く、「臣、拝みまつらむ」といふ。便でに仏像を受く。因りて蜂岡寺を造る。」
603(推古11)年 聖徳太子、冠位十二階を制定
『日本書紀』−−「(推古十一年)・・・始めて冠位を行ふ。大徳・小徳・大仁・小仁・大礼・小礼・大信・小信・大議・小議・大智・小智、并て十二階。並びに当れる色のきぬを以て縫へり。」
604(推古12)年 聖徳太子、憲法十七条を制定
『日本書紀』−−「(推古十二年)・・・皇太子、親ら肇めて憲法十七条作りたまふ。一つに日く、和なるを以て貴しとし、忤ふること無きを宗と施よ。・・・」
605(推古13)年 聖徳太子、斑鳩宮に移る
606(推古14)年 聖徳太子、天皇に勝鬘経を講義
『日本書紀』−−「(推古十四年)・・・天皇、皇太子を請せて、勝鬘経を講かしめたまふ。三日に説き竟へつ。是歳、皇太子、亦法華経を岡本宮に請く。天皇、大きに喜びて、播磨国の水田百町を皇太子に施りたまふ。因りて斑鳩寺に納れたまふ。」
607(推古15)年 法隆寺創建、用明天皇のため金堂薬師如来座像を造願
607(推古15)年 遣隋使に任命された小野妹子、国書を煬帝に奉呈、国書には「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや云々」と書かれていた。
611(推古19)年 聖徳太子、「勝鬘経義疏」を撰す
613(推古21)年 聖徳太子、「維摩経義疏」を撰す
615(推古23)年 聖徳太子、「法華経義疏」を撰す
618(推古26)年 隋の煬帝が殺され、唐が興る
620(推古28)年 聖徳太子、馬子と議り、天皇記、国記を記録
『日本書紀』−−「(推古二十八年)・・・皇太子・嶋大臣、共に議りて、天皇記及び国記、臣連伴造国造百八十部并て公民等の本記を録す。」
622(推古30)年 橘大娘女、太子のために天寿国曼陀羅繍帳を造る
622(推古30)年 聖徳太子、斑鳩宮で逝去
623(推古31)年 太子のために金堂釈迦三尊像を造願
623(推古31)年 蘇我馬子、征新羅軍を派遣
626(推古34)年 蘇我馬子死、子蝦夷大臣になる
628(推古36)年 推古天皇、逝去
643(皇極2)年 蘇我入鹿により、山背大兄一族滅亡
645年 蘇我氏滅ぶ
670(天智9)年 法隆寺炎上
『日本書紀』−−「(天智九年)・・・夜半之後に、法隆寺に災けり。一屋も余ること無し。大雨ふり、雷震る。」
708(和銅元年) 法隆寺再建