法隆寺の宝物

法隆寺金堂・六号壁「阿弥陀如来浄土図」の「脇侍菩薩」

法隆寺 金堂 壁画

中央に阿弥陀如来が座してその左右には観音菩薩と大勢至菩薩が侍立しています。この観音と大勢至はともにこの壁画中もっとも美しいといわれていた壁画であります。

東海大学・情報技術センターにおける「画像解析」と「画像処理」によると、観音菩薩に大勢至菩薩を反転して重ね合わせると、完全に重なるといいます。この両脇侍は、同じ原図、つまり同じ型紙を裏返しに使って描かれたことになります。

1949(昭和24)年の火災で焼損しました。現在では、写真や模写によって往時の美しさを偲ぶしかありません。

法隆寺の国宝・重要文化財

中世の兵火を免れ、太子信仰に支えられて、法隆寺には、膨大な宝物が伝えられています。金堂の釈迦三尊、五重塔の塑像群、夢殿の救世観音、大宝蔵殿の百済観音、玉虫厨子など、法隆寺には、38件もの国宝と151件の重文があります。

東京国立博物館・法隆寺宝物館には、明治初期に皇室へ献納した国宝・聖徳太子絵伝、重文・献納金銅仏(俗に四十八体仏)、金銅透彫潅頂幡、伎楽面など法隆寺献納宝物318件が収蔵されています。

釈迦三尊像[国宝/飛鳥時代]

光背銘によると、621(法興31・推古29)年に鬼前太后(聖徳太子の母)も崩じ、翌年正月に上宮法皇(聖徳太子)も病に倒れ、王后と王子、諸臣が回復を願って等身の像を造ることを発願、2月に法皇は世を去ったが、さらに翌年に司馬鞍首止利仏師(鞍作止利)の手で完成したといいます。

薬師如来座像[国宝/飛鳥時代]

光背銘によると、用明天皇の遺志を継ぎ、推古天皇と聖徳太子が607年に造ったといいうことです。これが法隆寺創建の年の根拠ともなっています。形式上、「釈迦三尊像」と共通した点が多く、また、推古期には使われていなかったことばづかいがあることなだから、再建時に「釈迦三尊像」の表現を模して造られたと見られています。

金堂壁画[重文]

かつて金堂の内部壁面には、外陣の周囲の大小12面に釈迦、薬師、弥勒、阿弥陀の四仏浄土図と八菩薩像、その上部の小壁18面に山中羅漢図、そして内陣の長押上小壁20面には飛天図が描かれていました。しかし、1949(昭和24)年火災で大半が失われ、解体修理のおりだったので、飛天を描いた壁面は難を逃れました。インドのアジャンタ、中国の敦煌の壁画に見られるのと同じ様式で描かれています。

玉虫厨子[国宝/飛鳥時代]

宣字形の須弥座の上に、単層入母屋造の宮殿を安置する厨子で、宮殿部の縁を飾る透彫金具の下に玉虫の羽が敷きつめられていたことからこの名があります。現在はほとんど剥落しています。宮殿部の建築様式は、金堂よりも古い形式で、飛鳥時代の貴重な遺構といわれます。内部、側面に押出千仏像の銅板を貼りめぐらせ、金銅菩薩立像を安置するが、もとは釈迦三尊像が安置去れていたといわれます。

観音菩薩立像(百済観音)[国宝/飛鳥時代]

この像の伝来は謎に包まれています。法隆寺の最も重要な古記録である747(天平19)年の「法隆寺資財帳」などには、この像にあたる記事が見いだされないといわれます。江戸時代、1746(延享3)年、良訓が記した「古今一陽集」に「虚空蔵菩薩、御七尺余、此ノ尊像ノ起因、古記ニモレタリ。古老ノ伝ニ異朝将来ノ像ト謂ウ。其ノ所以ヲ知ラザル也」と記されているといいます。

明治になって、金銅透彫で瑠璃色のガラス玉を飾った宝冠が発見され、像に再び取りつけられました。この宝冠には観音の標識である小さな化仏座像が中央に線刻されているので、それ以来、この像は虚空像菩薩ではなく観音菩薩とされるようになりました。いつしかこれに「百済国将来」という伝えがかぶせられて「百済観音」とよばれるようになったということです。しかし、作風からみて百済の仏像とはいえず、また日本でさかんに使われた樟材が用いられていることから、日本で造られた像であると見られています。

救世観音像[国宝/飛鳥時代]

761(天平宝字5)年の東院の記録に「上宮王等身観世音菩薩」とあり、聖徳太子と等身の観世音菩薩と伝えられる秘仏です。1884(明治17)年、フェノロサにより開扉されたとの伝承があります。