聖徳太子ゆかりの寺
広隆寺/弥勒菩薩像
603(推古11)年 秦河勝が蜂岡寺(広隆寺)を造りました。
『日本書紀』−−「(推古十一年)・・・皇太子、諸の大夫に謂りて日はく、「我、尊き仏像有てり。誰か是の像を得て恭拝らむ」とのたまふ。時に、秦造河勝進みて日く、「臣、拝みまつらむ」といふ。便でに仏像を受く。因りて蜂岡寺を造る。」
左から、広隆寺八角堂(桂宮院)と弥勒菩薩像、広隆寺の風景と弥勒菩薩像、広隆寺講堂と弥勒菩薩像
中宮寺/弥勒菩薩半跏像
聖徳太子が、母、穴穂部間人皇后(用明天皇妃)のために創建した寺です。現在の中宮寺は、夢殿の東に隣接していますが、その旧地は、現中宮寺の東方にあり、聖徳太子の斑鳩宮を中央にして、西の法隆寺と対称的な位置にあります。発掘調査で、南に塔、北に金堂を配した四天王寺式配置伽藍であったことが確認され、若草伽藍が四天王寺式であるのに応じています。
国宝弥勒菩薩半跏像(寺伝如意輪観音)は、その金堂の本尊であり、国宝天寿国曼陀羅繍帳(残欠)は、妃の橘大郎女が天寿国に往生した聖徳太子の姿をしのぶ刺繍を発願したものと伝えられています。現在は模造したものを本堂に展示されています。
広隆寺の宝冠弥勒に対して、双髻弥勒とよばれ、我が国屈指の半跏思惟像といわれています。中宮寺の創建についてはっきりしたことがわからず、この像についての史料も何もありません。飛鳥時代の木彫に見られる樟材を用い、複雑な寄木の技法で作られています。現在、像の表面は黒光りの美しい肌を見せていますが、制作当初、肉身部は肌色で、下半身をおおう裳は朱色、榻座の敷布は切金や緑青、また光背も切金をはじめ種々の色彩で彩色された彩色像であったらしい。
四天王寺
587年、厩戸皇子(聖徳太子)は、蘇我馬子の守屋討伐軍に参加したとき、四天王寺の造寺を誓いました。593(推古元)年、厩戸皇子が、難波の荒陵(大阪市天王寺区)に四天王寺を造ったといわれます。発掘調査によると創建は7世紀前半(推古朝の末年)とみられます。
『日本書紀』−−「(崇峻元年)・・・乃ち白膠木をきり取りて、疾く四天王の像に作りて、頂髪に置きて、誓を発てて言はく、「今若し我をして敵に勝たしめたまはば、必ず護世四王の奉為に、寺塔を起立てむ」とのたまふ。」
左から、四天王寺舞楽、五重塔と金堂救世観音菩薩像
播州 斑鳩寺
606(推古14)年 聖徳太子は、推古天皇に勝鬘経を講義しました。
『日本書紀』−−「(推古十四年)・・・天皇、皇太子を請せて、勝鬘経を講かしめたまふ。三日に説き竟へつ。是歳、皇太子、亦法華経を岡本宮に請く。天皇、大きに喜びて、播磨国の水田百町を皇太子に施りたまふ。因りて斑鳩寺に納れたまふ。」
聖徳太子は、この地を斑鳩荘と名づけ、一つの伽藍を営んだと伝えられます。
播州斑鳩寺三重塔に聖徳太子の十七条憲法の巻物