あすか から なら へ

高松塚古墳 東壁 青龍

飛鳥時代、甘樫丘の東、飛鳥川右岸に、数々の宮が営まれました。飛鳥浄御原宮、飛鳥板蓋宮、飛鳥岡本宮、飛鳥小墾田宮、・・・。平城京の古代貴族は、飛鳥を、ふるさととなつかしみ倭京(やまとのみやこ)とよびました。また、大和三山−畝傍山、耳成山、天香具山−に囲まれた地に藤原宮がありました。 古来、日本では、天皇(大王−おおきみ)の代が替わると新しく宮が造営されました。これは、死を忌み嫌ったことによります。

「あすか から なら へ」は、倭京から平城京をへて平安京にいたる京の遷りかわりをその歴史にちなんだ切手と万葉歌でたどるものです。
・飛鳥時代:百済からの仏教公伝(538年)、推古朝の聖徳太子・蘇我氏の時代
・白鳳時代:乙巳の変(645年)、白村江の敗戦、壬申の乱を経て律令制国家建設へ
・奈良時代:平城京遷都(710年)、東大寺大仏開眼に見られる仏教国家の出現
そして、平安京遷都(794年)で平安時代が幕を開けます。

 倭京(やまとのみやこ)
 新益京(あらましのみやこ)
 平城京
 聖武天皇の彷徨(恭仁京、紫香楽宮、難波京)
 長岡京
 平安京

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甘橿丘の東方・飛鳥寺の南の田畑一帯、真神が原(左方に、飛鳥寺−現安居院)

ここに掲出する万葉集、古今和歌集、新古今和歌集の歌は、岩波書店「日本古典文學大系」に拠りました。
1 January 2003 Tadahiro Iwata